壊れゆくメロディ

異質なモノ

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現実にとらわれては抽象的概念を思索する者としてはいささか都合が良くない。現実とは時間の差異の消えた統合的機能の中に知覚されるもので、それはラプラスの悪魔にも似た存在であることを知るからである。フランスの哲学者ジャック・デリダは自分自身に不在なものはすべて自分に対して遅延するものであると言う。現実は真に現実的ではない。現実に見える太陽も星も、実際には時間軸にずれがあり、現在のものではないと言われている。我々はそれを同時に知覚して現実を構成する。現実は統合的機能の中に知覚される。ボードリヤール風に言うならばそれは積分的な、インテグラルな現実となる。しかしもしかすると本当は、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言うように「世界は五分前に始まった」のかもしれない。

仮想現実は現実をクローン化する。クローン化された現実は真の現実となり、真の現実は不在となる。「シュミラークルは真実を隠すものではなく、真実の不在を隠すものとなる」。置き換えられたクローンの現実は常に真の現実と入れ替わり続ける。本物は偽物にとって代わられやがて偽物が本物となり、さらにそれに対する偽物があらわれ、本物となった偽物は新たな偽物にとってかわられる。真実の空虚は決して埋め尽くされることはない。シュミラークルに向かう逃走。やがてすべてが人工的なものとなり、つまりは空虚が真実を埋め尽くし、シュミラークルの世界はできあがる。もう幻想などいらない。すべてがリアルで操作的、プログラムによって構成されるため、真実であることなど必要のない世界。いやむしろすべてが真実である絶対的な世界。虚偽の欠如した全体的真実、悪の欠如した絶対的善、否定的なものを欠いた肯定だけの世界。それはどこまでも明るく不条理であることだろう。

犯罪が凶悪化するのはこの絶対的な善に対する巨大な否定的逆転移かもしれない。幻想を否定されるハイパーリアルな世界の中、夢想家は悪と化す。強い光には強い影ができるように、強烈な正義は強烈な悪を生む。不条理な全体性の中、人々は些細な異端を探すが、異端は見つけられた途端、偽物に置き換えられる。世界は現実的でなくなり真実は不在となる。世界はやがてすべてバーチャルに置き換えられ、かつて悪の思想の考古学で異端の遺産を相続したシュミレーションによって創られる。人々は現実にあらがうが、この抗しがたい現実にあらがう者はやがて壊れる。自己破壊。「かつてはホメロスとともに、オリンポスの神々によって観想の対象であった人類は、いまでは自己自身にとってそうなってしまった。人類の自己自身の自己自身による疎外は、自己の破壊を第一級の美学的感覚として人類に体験させる段階にまで達したのだ」とドイツの思想家ベンヤミンは言う。自己破壊の美学。しかしそれはキリスト教によって自殺を禁じられた西洋人にとっては目新しいものであったかもしれないが、葉隠れの美学を重んじる日本人にとっては、逆に古い思想であった気がする。西洋社会はキリスト教を乗り越えてようやく日本思想に到達した。ところが日本はその古い日本思想を捨て、西洋思想から学ぶ。何が何やらわからない状態。日本人は新しく西洋思想を学ぶつもりで古い日本思想を学んでいるところがあるのである。ポストモダンの世界において、日本が周回遅れのトップランナーと評される所以はそこにある。

現実はシュミレーションと情報の企てによって作られる全体。ますます不確実で息苦しくなる。現実は実証性のせいで非現実的となり、シュミレーションのせいで思弁的となる。その悪の知性をもって我々は現実にたち向かう。仮想によって組まれた現実にとって、異質なものはむしろ我々自身である。我々はそれから目をそむけるための人工的真実を選ぶべきではない。「いかなる形式の否定、打ち消し、否認をもってしても、もはや否定性の弁証法も、否定の作業も問題にならない」ボードリヤールは言う。現実自体を転倒させることが重要になるのだ、と。

ただボードリヤールについては客観的現実性を発見したのは西洋文化のみであるという一文がある。このことに関しては今後また少し考慮するべきであろう。


(イラスト:堂野こむすい va1608-004『密林の猫』)

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このページは、komusuiが2016年8月13日 11:09に書いた記事。

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