壊れゆくメロディ

2015年6月アーカイブ

地獄と迷宮

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醜いバケモノのキャリバンは、ナポリから来た酔っ払いを、月から落ちてきた神様だと勘違いし、家来にして欲しいと頼み込む。

「林檎の成っている処へ案内するよ、この長い爪で土の中の豆を掘ってあげる、カケスの巣の在り場所も教えてあげる、ボクはすばしこいネズミザルに罠を仕掛ける事も知っているからね、ハシバミの実が房成りになっている処にも連れて行ってあげる、何なら岩の間からカモメを捕まえて来てあげてもいい。ねえ、一緒に行こうよ」

ナポリから来た悪党たちはキャリバンの愚かさをあざ笑い、足をなめさせる。

悪党たちを神様だと思い込んでいるバケモノは、この神様こそ自分を地獄から救い出してくれると信じて、足をなめる。

何も知らない仔猫程度の頭で。

「雲がふたつに割れて、そこから宝物がどっさり落ちてきそうな気になって、そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いたこともあったっけ」

醜いバケモノはそんな話をし、クスクスと笑う。ほんの小さな幸せをさがして遠い遠い空を見上げて

ある朝、初夏のイタリア大使館通りをバビロニアの神官と歩いていた時、「ねえ君。地獄巡りの先にしか極楽は存在しないんだよ」と不意に、彼はいつになく真面目な表情で言った。

「深い闇を知らなければ己の存在する世界の明るさの認識などできはしない。地獄を巡り帰ってくるからこそ人はこの世界を極楽だと知るんだよ」と。

私は反論する。

「でも実際のところ、帰還したってそこは極楽じゃないかもしれないじゃないか」。

古来、冒険譚、迷宮譚にあるとおり人は己の未知の世界に足を踏み入れ、そこから帰還することによって己を成長させる。

人生を永遠の成長の場と捉えるならば、人は死ぬるまで新しい地獄を巡り、そこから帰還し続けなくてはいけない。そう、必ず帰還しなくてはなない。それはわかる。

しかし、その帰還した世界が極楽かどうかはまた別問題じゃないか。極楽に帰還したつもりが、むしろこちら側こそ地獄であったとか。

私は口を尖らす。

キャリバンの不幸は、現実のほうが地獄であったこと。むしろそのことにあるのではないだろうか、と。

苦しい地獄の奥底から、バケモノはいつも極楽を夢みる。可哀想じゃないか。

「いや。それでもだね。彼はもう一段深い地獄を旅しなくちゃいけないんだよ」

バビロニアの神官はいつのなく厳しい口調でそう言う。

キャリバンはすでに地獄にとりつかれている。

「だからこそ、もっと深い地獄を見るんだ。そして現実の地獄をまだマシだと知ったとき、現実は地獄から極楽にかわるかも知れない」

マシ。よりひどい地獄よりマシ。それを確認するため、人は地獄を巡る?

ひどい地獄を見て来たおかげで、現実の辛さも極楽と感じることができる?

「またこういうこともある」と神官は言う。

「地獄には特有の魅力がある。それは、帰還する困難さを放棄することにより得られる堕落の快楽。人はそこに安楽をみることもある」

迷宮と地獄は同じなんだよ、と。

地獄に迷い込んだけれど、そのまま帰ることを放棄する。その愉悦。頽落からくる愉悦。

「それを知ってしまったためキャリバンは迷宮の中に留まってしまったと言うんだね」と、私は神官に問う。

彼は立ち止まり振り返る。

夢から覚めたことを哀しく思い泣くバケモノは迷宮の中にとどまり続け、永遠に完結しない物語を欲する迷い人。帰還することを拒み地獄の中でここが良いと駄々をこねる。成程、その気持ちは私もよく分かる。永遠に終わらない物語を欲し泣く子供は私自身でもあるかもしれない。

「しかしそれでも、人は帰還しなければいけない。なぜならば、そうしなければ先がないからだ」

人は成長し続けなければいけない。成長し続けるには狭き門に入らねばいけない。

キャリバンは神にすがろうとしてナポリの悪党に騙される。

これは広き門、極楽への近道を望んだ結果だったのかも知れない。

「地獄を選ぶ。より苦しい道を選ぶ。それが成長への第一歩なんだ」

私は苦痛に顔をゆがめる。

「人はなぜ成長しなければいけないの?」

「地獄から抜け出すためだよ」

ベロッソスは言う。

「そして人は成長し続けようとする限り、他人に対し限りなく興味を持つものかもしれない、と私は思う。なぜなら他人はJPサルトルの言葉を借りるまでもなく、己にとって必ず地獄なのだから」

他人は地獄。

とすると、キャリバンの不幸は主人公の親子以外の他人と、それまで出会わなかった、というところにあるかもしれない。

あまりにもほかの他人を知らなさすぎた。他人という地獄を巡る機会がそれだけ少なかった。そのためナポリの悪党に簡単に騙された。

「キャリバンが現在存在している地獄から抜け出すには、自ら進んでもっとひどい地獄に行くしかないんだよ。その地獄から帰還すれば、現在の地獄はマシになっているだろうし、成長もしているから、悪いナポリ人に騙されることも少なくなる。そういったものだと思うんだ」

星空を見て涙するバケモノ。

その姿を思い浮かべながら私たちは爽やかな朝の散歩を楽しむ。

「良いも悪いもすべて主観。キャリバンはきっとこれで少し先に進める。そう思えばナポリの悪党に騙されたことも、まんざら悪くはないだろ?」とベロッソスは笑う。

「だけどキャリバンは愚かでも、いや、だからこそ。なんだか結構好きだけどね」

私もベロッソスに笑い返した。


(イラスト:堂野こむすい va1506-008『化物は月に涙する』)

夢見る宇宙飛行士

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原子時計の一秒はセシウム133原子の基底状態の二つの超微細準位の遷移に対応する電磁波放射の周期の91億9263万1770倍と定義される。

計測技術の進歩で天体の運行は必ずしも安定したものではないと知った一人の物理学者は、一九六七年に定められた新しい時間の概念で猫に語る。

「10万年から500万年分の1秒以下の誤差、ってどんな空間だか君には想像できるかい?」

宇宙ステーションで組み立てられるロボットアーム『テクスター』。ウィトゲンシュタインを片手にボクたちは夜空にそれを探す。

詩人、スコット・カーペンターは何かの間違いで宇宙飛行士になり、地球と宇宙ホタルの美しさに心奪われ大気圏突入の操作に失敗した。「ねえ、その時どんな気持ちだったの?」ボクが訪ねると彼はきっとこう答える。「すべては図像の世界。チカチカチカ。地球は完全な闇の空間に浮かぶ小さな小さな水風船」

絶対死の宇宙の中にぽっかりと浮かんだ水風船。こんな非科学的な現実が存在する不思議をボクたちは祈らなくちゃいけない。

死んだと思われていたカーペンター。壊れたマーキュリー七号を尻目に、イカダに揺られて呑気に瞑想している。

「パラパラパラ、ヘリコプターがオレを救出に来たんだって。なんてうるさい野暮天だ。もしもオレがジャンジャック・ルソーだったらディドロの舞台に四ツ足で登場し、ムシャムシャとレタスを食ってやるのに」

海は穏やかでイカダはゆっくりと波間を漂う。

ただいま、おかえり、ただいま、おかえり。

満天の星空は宇宙の宝石箱。いつかすべての物質はあの空間に帰ってゆくんだ。星の街のプラネタリウムで八十八個の星座を覚えて、コリオリスで目を回して。

熱力学の第二法則がもしこの世のすべてに適用されるとするならば、そのうち宇宙も死ぬはずだけれど。それでも心に希望を抱いて、生命すべてのけなげさを慈しみ、毎日明るく楽しく暮らす人々。

猫はウィトゲンシュタインを片手にボクに言う。「対象が世界の実体を作る」と。だけど分からないんだ。宇宙は何と比較しうる存在なんだろう?

パスカルが思考によって包んだ宇宙とサルトルが定義した無。エントロピー増大の法則で混沌へと向かうエネルギーの流れ。熱損失、熱損失、熱損失。そうだよ。ウィトゲンシュタインはオブジェクト型のスクリプトと同じ概念で論理哲学論考を書いたのかもしれないんだ。猫は考える。「文の部分にして文の意味を特徴付ける各部それぞれを私は表出(シンボル)と呼ぶ。(文自体が一個の表出である)表出とは、文の意味にとって本質的なる一切、しかも文が相互に共有することのできるすべてである。表出は形式および内容の特徴を明示する。表出の生じうる場は文だが、表出はあらゆる文の形式を前提とする。表出はある一群(クラス)の文に共通する特徴の微表である。云々」

宇宙を見ながらウィトゲンシュタインを考えるとなぜかプログラミングに行き着いてしまい、猫とボクは少し困惑する。

地球の自転や公転から決められていた時間は、いつしか水晶振動子によって決められるようになり、今はセシウム原子時計によって決せられるようになった。

昔の1秒と今の1秒は微妙に違っているみたいだけれど、500万年分の1秒の分からないボクたちにはあまり関係のない話かも知れないね。等々。

イカダでぼんやり空を見上げて猫とたわいない会話を楽しんで。それはきっとステキな冒険。


イラスト:堂野こむすい va1506-003『カンブリアの海』)

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