壊れゆくメロディ

2016年8月アーカイブ

大量絶滅

va1608-005三葉虫.jpg

恐竜が絶滅したのは白亜紀後期、今から約六千五百万年前、地球と小惑星が衝突したためだと言われている。イリジウムを大量に含んだ地層、K-Pg境界というラインを境に、それ以前とそれ以後の生物はまったく別物に入れ替わった。このとき生物の約九十九パーセントが死滅し、生物の種の約七十パーセントがこの世から消えたという。

地球ではこれ以前にもたびたびこのような大量絶滅がおこったらしく、このK-Pg境界の大量絶滅以外にも、オルドビス紀末のO-S境界、デボン紀末のF-F境界、ペルム紀末のP-T境界、三畳紀末のT-J境界などの絶滅があったという。絶滅の理由はさまざまでK-Pg境界のような小惑星との衝突もあれば、地球環境の激変による絶滅もあった。

オルドビス紀末の絶滅は今から約四億四千四百万年前のことであるが、理由は近郊の星の超新星爆発によってガンマ線バーストを地球が受けたためではないかと言われている。このとき、腕足類をはじめとする生物種八十五パーセントが滅亡した。

デボン紀末の絶滅は、気候の寒冷化と海中の酸素が欠乏するいわゆる海中無酸素事変が原因でないかと言われている。このとき、甲冑魚などの海生生物を中心に、約八十二パーセントの生物種が滅んだ。

ペルム紀末の絶滅は、今から約二億五千百年前。理由は不明であるが、三葉虫をはじめとする多くの種が絶滅し、その規模は他の絶滅と比べて最大級であった。他の絶滅では事後数十万年ほどで再び多様な生物たちが現れるが、ペルム紀の絶滅のあとは一千万年の空白が続く。ちょうどこのころ、ローレンシア、バルティカ、ゴンドワナ、シベリアの四大陸が衝突し一つの超大陸パンゲアになったとされるが、ひょっとするとそのことと何か関係があるのかもしれない。二億五千万年前に一つの超大陸となったパンゲアは二億年前ごろ、再び分裂をはじめ、今の地形へと変化していった。

三畳紀末の絶滅は約一億九千九百万年前でアンモナイトなどが絶滅する。そしてこれ以後それまで小型だった生物が大きくなり恐竜へと進化を遂げる。以後、約一億三千四百万年間、恐竜は繁栄し続ける。

その恐竜が滅ぶのが今から約六千五百万年前。白亜紀後期の小惑星との衝突によって、である。

人類らしきものが現れたのを今から約四百万年前、アウストラロピテクスの登場からとするならば、恐竜の滅亡から六千百万年の後である。それからさらに百五十万年をかけて、アウストラロピテクスはホモ・ハビリスに進化し、さらに二百万年の歳月をかけて現在の人類に進化する。

こうして現れた人類が、次の大量絶滅の原因となっていることは多くの自然科学者が指摘するまでもないであろう。ハーバード大学のウィルソン教授が言うように、人々がもし今までと同じ生活習慣を保とうとするならば、今後百年の間に生物圏の約半数の種は絶滅する。真面目で勤勉な人たちが真面目に勤勉に今の生態系を破壊し、人類を含むすべての生物を滅亡へと追い込む。「何の悪気もなく、ただ真面目に勤勉に」。人類は他の生物にとって悪魔以外のナニモノでもない。価値基準や思考法、それを少し変えなければ今の生態系に未来はない。

人類の増長のために滅びゆく生き物たち。生態系の崩れは人類をも滅ぼす。しかし大量絶滅がおこっても、数十万年経てばまた新しい生物がうようよ生まれてくるとすれば、それはそれでいいのかもしれない。今度はどんな生き物が地球の王者となるのだろう。それを考えると、少し楽しい気分にもなる。


(イラスト:堂野こむすい va1608-005『三葉虫』)

欲望の根源

km1607-001-12.jpg

フロイトはすべての欲望の根源をリビドーと言い、それを性欲に一元論化しようとした。欲望は機械仕掛けで、精神の異常というのは機械の調子狂いのようなものだ、と彼は考える。リビドーの流体力学が人間の心をまるで機械のように組み立てる、とフロイトは言うのである。のちにフランスの哲学者ドゥルーズはそのフロイトの言葉を受けて『欲望する機械』という概念を表す。ともあれフロイトの提唱した精神分析学は斬新で、性的欲求の存在を明らかにすることで潜在意識は意識にも勝るという彼の思想は多くの人々の共感をよんだ。「我思う。ゆえに我在り」と自己の意識の存在によって自己の存在を証明しようとしたデカルト哲学への、それはアンチテーゼともなった。フロイトの斬新さは一世を風靡し、やがて彼は時の人となる。人々は彼の思想を知ろうとした。『精神分析学入門』は飛ぶように売れ、各大学は彼に講演を依頼した。しかし時期がたつにつれて、ゆがみも生じた。性欲一元論化というリビドーの考えが強烈すぎるためか、それともフロイトの持つ個性の強さゆえか。フロイト学派はユングをはじめとする多くの弟子たちの離反をうみ、やがて様々な異端思想の萌芽ともなる。これ以降、弟子たちはフロイトの学説をもとにそれぞれの思想を取り入れた新しい学派をつくり、互いに反発しあいながらも、新しい心理学研究の礎を築くこととなるのである。そうした精神分析学の歴史の中、最も異端であったのがライヒかもしれない。ヴェルヘルム・ライヒ。オーストリア出身。彼はフロイトの思想のうち性的欲求について最も共感した人物の一人であった。ライヒは性欲というものをエネルギー化して活用しようと考え、オルゴン理論というものを提唱した。オルゴンとは自然界に充満する気のエネルギーのことで、それは性的絶頂と深いかかわりを持つというものである。何やらイモリノクロヤキと一脈通ずるような彼の思想はフロイトのリビドーよりもさらに過激であるとみなされ、まず師のフロイトに嫌われた。そして彼は所属したオーストリア共産党から嫌われ、ナチスドイツから狙われ、亡命先のノルウェーを追放され、最後はアメリカで詐欺師として投獄されて獄死した。幼少期に父母に相次いで自殺されたことから始まったライヒの人生のなんとも哀しい末路である。性の解放ともいうべき思想を持って生きた彼は、今もって似非科学者の烙印を押されている。しかし一方、ラブアンドピースを旗印に掲げマリファナを吸ってギターを弾いた六十年代のヒッピーたちには高く評価されたらしい。そして現在もライヒ学派の科学者がアメリカや東京で少ないながらも活躍している、ということである。何やら変な結びになるが、とにかくフロイトの弟子にそんな人物もいたということである。

欲望の根源、というものについて考えながら、ハイデガーの著書『存在と時間』をペラペラとめくる。欲望の根源にあるもの、それは死の恐怖からの逃避ではなかろうか、と、この著書の中にそのような言葉があったような気がしたからである。『存在と時間』それはそれまでそうであることが当たり前とされてきた大前提「存在する」ということについてドイツの哲学者ハイデガーが考証を重ねた名著であるが、中盤以降は死に関しての考察により多くのページを割いていることでも知られている。人間は常に死を意識して生きねばならない、というような、そうでなければ頽落してしまう、というような、そのような趣旨でそれは書かれていたように思う。憂鬱や気だるさ、そういった気分が突然襲ってくる影に、逃れられない死の恐怖というものがあるというような。それで、なんだっけ?

私の思考は突然霧散し、とりあえず読書でもしようということになり、なので今日はここまで。


(イラスト:堂野こむすい km1607-001-12『赤鯛』)

異質なモノ

va1608-004密林の猫.jpg

現実にとらわれては抽象的概念を思索する者としてはいささか都合が良くない。現実とは時間の差異の消えた統合的機能の中に知覚されるもので、それはラプラスの悪魔にも似た存在であることを知るからである。フランスの哲学者ジャック・デリダは自分自身に不在なものはすべて自分に対して遅延するものであると言う。現実は真に現実的ではない。現実に見える太陽も星も、実際には時間軸にずれがあり、現在のものではないと言われている。我々はそれを同時に知覚して現実を構成する。現実は統合的機能の中に知覚される。ボードリヤール風に言うならばそれは積分的な、インテグラルな現実となる。しかしもしかすると本当は、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言うように「世界は五分前に始まった」のかもしれない。

仮想現実は現実をクローン化する。クローン化された現実は真の現実となり、真の現実は不在となる。「シュミラークルは真実を隠すものではなく、真実の不在を隠すものとなる」。置き換えられたクローンの現実は常に真の現実と入れ替わり続ける。本物は偽物にとって代わられやがて偽物が本物となり、さらにそれに対する偽物があらわれ、本物となった偽物は新たな偽物にとってかわられる。真実の空虚は決して埋め尽くされることはない。シュミラークルに向かう逃走。やがてすべてが人工的なものとなり、つまりは空虚が真実を埋め尽くし、シュミラークルの世界はできあがる。もう幻想などいらない。すべてがリアルで操作的、プログラムによって構成されるため、真実であることなど必要のない世界。いやむしろすべてが真実である絶対的な世界。虚偽の欠如した全体的真実、悪の欠如した絶対的善、否定的なものを欠いた肯定だけの世界。それはどこまでも明るく不条理であることだろう。

犯罪が凶悪化するのはこの絶対的な善に対する巨大な否定的逆転移かもしれない。幻想を否定されるハイパーリアルな世界の中、夢想家は悪と化す。強い光には強い影ができるように、強烈な正義は強烈な悪を生む。不条理な全体性の中、人々は些細な異端を探すが、異端は見つけられた途端、偽物に置き換えられる。世界は現実的でなくなり真実は不在となる。世界はやがてすべてバーチャルに置き換えられ、かつて悪の思想の考古学で異端の遺産を相続したシュミレーションによって創られる。人々は現実にあらがうが、この抗しがたい現実にあらがう者はやがて壊れる。自己破壊。「かつてはホメロスとともに、オリンポスの神々によって観想の対象であった人類は、いまでは自己自身にとってそうなってしまった。人類の自己自身の自己自身による疎外は、自己の破壊を第一級の美学的感覚として人類に体験させる段階にまで達したのだ」とドイツの思想家ベンヤミンは言う。自己破壊の美学。しかしそれはキリスト教によって自殺を禁じられた西洋人にとっては目新しいものであったかもしれないが、葉隠れの美学を重んじる日本人にとっては、逆に古い思想であった気がする。西洋社会はキリスト教を乗り越えてようやく日本思想に到達した。ところが日本はその古い日本思想を捨て、西洋思想から学ぶ。何が何やらわからない状態。日本人は新しく西洋思想を学ぶつもりで古い日本思想を学んでいるところがあるのである。ポストモダンの世界において、日本が周回遅れのトップランナーと評される所以はそこにある。

現実はシュミレーションと情報の企てによって作られる全体。ますます不確実で息苦しくなる。現実は実証性のせいで非現実的となり、シュミレーションのせいで思弁的となる。その悪の知性をもって我々は現実にたち向かう。仮想によって組まれた現実にとって、異質なものはむしろ我々自身である。我々はそれから目をそむけるための人工的真実を選ぶべきではない。「いかなる形式の否定、打ち消し、否認をもってしても、もはや否定性の弁証法も、否定の作業も問題にならない」ボードリヤールは言う。現実自体を転倒させることが重要になるのだ、と。

ただボードリヤールについては客観的現実性を発見したのは西洋文化のみであるという一文がある。このことに関しては今後また少し考慮するべきであろう。


(イラスト:堂野こむすい va1608-004『密林の猫』)

悪の根絶

va1608-003ツキノオサガリ.jpg

「ヴァーチャル性。これこそは究極的な現実性の捕食者かつ破壊者だ」とフランスの社会学者ボードリヤールは言った。仮想現実は客観的現実を食い尽くし、十進法は二進法に置き換えられてゆく。仮想現実、そこはある意味、天国そのものであるのだろう。人間の脳内で組み立てられた法則が自然を超越する世界。人間は平和で争わずゆったりと寝そべって時を過ごす。食べるものは豊富にあるし、不確実なことなど何もない。すべてはプログラム通り。これはハイデガーの言う頽落ではない、これこそ進歩なのである。天国は自然の森を壊し、広がりゆく砂漠に似ている。

仮想現実の世界では、音楽は純粋な波長となり映像はネガのない電気信号のみとなる。デジタルの世界にはピンボケもズレもなく、雑音もノイズもない。もしそんなものがあったとしたら、それは現実味をだすためにわざと挿入されたものであろう。そうでないならそれはバグとして除去される。現実は仮想にとってかわられ、アナログの不安定さはデジタルの純粋さに置き換えられる。この純粋さは当然、自然の産物である人間にも求められる。

十九世紀半ば、イギリスの統計学者ゴルトンによって提唱された優生学思想は世界中の学者の注目を集め、二十世紀初頭には産児制限・人種改良・遺伝子操作といった形で各国政府に取り入れられた。しかしナチスの過剰な人種政策により、それは人権問題と真っ向から対立することとなり、やがて第二次大戦の終結とともに廃れた。優生学は忌むべき思想ということで一種のタブーとなったが、それで人々の考え方が変わったかというとそんなわけはない。「知的に優秀な人間を想像する」「人間の苦しみや健康上の問題を軽減する」という優生学のスローガンはやはり魅力的であるらしく、今もって根強い人気を誇る。タテマエとして言われなくなった分、それは様々に形を変えて人々の心の奥底に幾筋もの根を生やす。

人間は無菌室に暮らすことなどできない、と私は思う。しかし仮想の現実はこの純粋さをひたすらに求める。なぜならば純粋さこそ仮想現実の正義なのだから。遺伝学に浸透した仮想現実は、優生学のスローガンのうち「知的に優秀な人間を想像する」という項目を外し、「人間の苦しみや健康上の問題を軽減する」というもののみを取り上げて、やがて結びつく。病理というバグを取り除き、人間を新たなる現実の前に連れ出す。純粋さとは、優生学のひとつの奇形であろう。

こうして遺伝学を通じ現実と結びついた優生学。「知的に優秀な人間を創造する」という項目が外れた分、ずいぶん質も落ちる気もするが、これはこれで都合がいい。優生学は形を変えて、穏やかな天国の住人を生むことに方向転換したということだ。優秀な人間はもういらない。現在求められる規範的な人間は、もはや目的を持たない、ただ病理を遠ざけられて長生きするだけの人間である。長生きすることだけを目的に、平和で争わずゆったりと寝そべって時を過ごす人間なのである。形を変えた優生学は現実を天国に変化させる。天国の住人は管理しやすい。ミシェル・フーコーの言うように、彼らは医療によって統治されているのだから。

この天国において最も問題になるのは犯罪であろう。そこでそれを予防するために、やがて病院は生まれたばかりの赤ん坊に殺菌術をほどこすようになるかもしれない。殺されるのは「悪の遺伝子」。世界は悪を根絶やしにする。すべての赤ん坊に殺菌術をほどこすのは、(警察や権力の視点からすれば)人間はみな潜在的犯罪者であるから。やがて悪は根絶され、平和で穏やかな未来がくる。純粋なる正義のもとに、悪は滅びるのである。そして悪の根絶はその後さまざまに形を変えて、夢も理想も幻想も、やがてすべて除去しさるだろう。すべての消え去った平和な天国で、きっとニーチェはこう叫ぶ。

「われわれは真実の世界を消滅させてしまった。それなら、どんな世界があとに残るだろうか。仮象の世界? いや、真実の世界とともに、われわれは仮象の世界も同時に消滅させてしまったのだ」


(イラスト:堂野こむすい va1608-003『ツキノオサガリ』)

このアーカイブについて

このページには、2016年8月に書かれた記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2015年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。