壊れゆくメロディ

悪の根絶

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「ヴァーチャル性。これこそは究極的な現実性の捕食者かつ破壊者だ」とフランスの社会学者ボードリヤールは言った。仮想現実は客観的現実を食い尽くし、十進法は二進法に置き換えられてゆく。仮想現実、そこはある意味、天国そのものであるのだろう。人間の脳内で組み立てられた法則が自然を超越する世界。人間は平和で争わずゆったりと寝そべって時を過ごす。食べるものは豊富にあるし、不確実なことなど何もない。すべてはプログラム通り。これはハイデガーの言う頽落ではない、これこそ進歩なのである。天国は自然の森を壊し、広がりゆく砂漠に似ている。

仮想現実の世界では、音楽は純粋な波長となり映像はネガのない電気信号のみとなる。デジタルの世界にはピンボケもズレもなく、雑音もノイズもない。もしそんなものがあったとしたら、それは現実味をだすためにわざと挿入されたものであろう。そうでないならそれはバグとして除去される。現実は仮想にとってかわられ、アナログの不安定さはデジタルの純粋さに置き換えられる。この純粋さは当然、自然の産物である人間にも求められる。

十九世紀半ば、イギリスの統計学者ゴルトンによって提唱された優生学思想は世界中の学者の注目を集め、二十世紀初頭には産児制限・人種改良・遺伝子操作といった形で各国政府に取り入れられた。しかしナチスの過剰な人種政策により、それは人権問題と真っ向から対立することとなり、やがて第二次大戦の終結とともに廃れた。優生学は忌むべき思想ということで一種のタブーとなったが、それで人々の考え方が変わったかというとそんなわけはない。「知的に優秀な人間を想像する」「人間の苦しみや健康上の問題を軽減する」という優生学のスローガンはやはり魅力的であるらしく、今もって根強い人気を誇る。タテマエとして言われなくなった分、それは様々に形を変えて人々の心の奥底に幾筋もの根を生やす。

人間は無菌室に暮らすことなどできない、と私は思う。しかし仮想の現実はこの純粋さをひたすらに求める。なぜならば純粋さこそ仮想現実の正義なのだから。遺伝学に浸透した仮想現実は、優生学のスローガンのうち「知的に優秀な人間を想像する」という項目を外し、「人間の苦しみや健康上の問題を軽減する」というもののみを取り上げて、やがて結びつく。病理というバグを取り除き、人間を新たなる現実の前に連れ出す。純粋さとは、優生学のひとつの奇形であろう。

こうして遺伝学を通じ現実と結びついた優生学。「知的に優秀な人間を創造する」という項目が外れた分、ずいぶん質も落ちる気もするが、これはこれで都合がいい。優生学は形を変えて、穏やかな天国の住人を生むことに方向転換したということだ。優秀な人間はもういらない。現在求められる規範的な人間は、もはや目的を持たない、ただ病理を遠ざけられて長生きするだけの人間である。長生きすることだけを目的に、平和で争わずゆったりと寝そべって時を過ごす人間なのである。形を変えた優生学は現実を天国に変化させる。天国の住人は管理しやすい。ミシェル・フーコーの言うように、彼らは医療によって統治されているのだから。

この天国において最も問題になるのは犯罪であろう。そこでそれを予防するために、やがて病院は生まれたばかりの赤ん坊に殺菌術をほどこすようになるかもしれない。殺されるのは「悪の遺伝子」。世界は悪を根絶やしにする。すべての赤ん坊に殺菌術をほどこすのは、(警察や権力の視点からすれば)人間はみな潜在的犯罪者であるから。やがて悪は根絶され、平和で穏やかな未来がくる。純粋なる正義のもとに、悪は滅びるのである。そして悪の根絶はその後さまざまに形を変えて、夢も理想も幻想も、やがてすべて除去しさるだろう。すべての消え去った平和な天国で、きっとニーチェはこう叫ぶ。

「われわれは真実の世界を消滅させてしまった。それなら、どんな世界があとに残るだろうか。仮象の世界? いや、真実の世界とともに、われわれは仮象の世界も同時に消滅させてしまったのだ」


(イラスト:堂野こむすい va1608-003『ツキノオサガリ』)

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このページは、komusuiが2016年8月11日 06:44に書いた記事。

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