シッポと言語

壊れゆくメロディ
 

大量絶滅

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恐竜が絶滅したのは白亜紀後期、今から約六千五百万年前、地球と小惑星が衝突したためだと言われている。イリジウムを大量に含んだ地層、K-Pg境界というラインを境に、それ以前とそれ以後の生物はまったく別物に入れ替わった。このとき生物の約九十九パーセントが死滅し、生物の種の約七十パーセントがこの世から消えたという。

地球ではこれ以前にもたびたびこのような大量絶滅がおこったらしく、このK-Pg境界の大量絶滅以外にも、オルドビス紀末のO-S境界、デボン紀末のF-F境界、ペルム紀末のP-T境界、三畳紀末のT-J境界などの絶滅があったという。絶滅の理由はさまざまでK-Pg境界のような小惑星との衝突もあれば、地球環境の激変による絶滅もあった。

オルドビス紀末の絶滅は今から約四億四千四百万年前のことであるが、理由は近郊の星の超新星爆発によってガンマ線バーストを地球が受けたためではないかと言われている。このとき、腕足類をはじめとする生物種八十五パーセントが滅亡した。

デボン紀末の絶滅は、気候の寒冷化と海中の酸素が欠乏するいわゆる海中無酸素事変が原因でないかと言われている。このとき、甲冑魚などの海生生物を中心に、約八十二パーセントの生物種が滅んだ。

ペルム紀末の絶滅は、今から約二億五千百年前。理由は不明であるが、三葉虫をはじめとする多くの種が絶滅し、その規模は他の絶滅と比べて最大級であった。他の絶滅では事後数十万年ほどで再び多様な生物たちが現れるが、ペルム紀の絶滅のあとは一千万年の空白が続く。ちょうどこのころ、ローレンシア、バルティカ、ゴンドワナ、シベリアの四大陸が衝突し一つの超大陸パンゲアになったとされるが、ひょっとするとそのことと何か関係があるのかもしれない。二億五千万年前に一つの超大陸となったパンゲアは二億年前ごろ、再び分裂をはじめ、今の地形へと変化していった。

三畳紀末の絶滅は約一億九千九百万年前でアンモナイトなどが絶滅する。そしてこれ以後それまで小型だった生物が大きくなり恐竜へと進化を遂げる。以後、約一億三千四百万年間、恐竜は繁栄し続ける。

その恐竜が滅ぶのが今から約六千五百万年前。白亜紀後期の小惑星との衝突によって、である。

人類らしきものが現れたのを今から約四百万年前、アウストラロピテクスの登場からとするならば、恐竜の滅亡から六千百万年の後である。それからさらに百五十万年をかけて、アウストラロピテクスはホモ・ハビリスに進化し、さらに二百万年の歳月をかけて現在の人類に進化する。

こうして現れた人類が、次の大量絶滅の原因となっていることは多くの自然科学者が指摘するまでもないであろう。ハーバード大学のウィルソン教授が言うように、人々がもし今までと同じ生活習慣を保とうとするならば、今後百年の間に生物圏の約半数の種は絶滅する。真面目で勤勉な人たちが真面目に勤勉に今の生態系を破壊し、人類を含むすべての生物を滅亡へと追い込む。「何の悪気もなく、ただ真面目に勤勉に」。人類は他の生物にとって悪魔以外のナニモノでもない。価値基準や思考法、それを少し変えなければ今の生態系に未来はない。

人類の増長のために滅びゆく生き物たち。生態系の崩れは人類をも滅ぼす。しかし大量絶滅がおこっても、数十万年経てばまた新しい生物がうようよ生まれてくるとすれば、それはそれでいいのかもしれない。今度はどんな生き物が地球の王者となるのだろう。それを考えると、少し楽しい気分にもなる。


(イラスト:堂野こむすい va1608-005『三葉虫』)

欲望の根源

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フロイトはすべての欲望の根源をリビドーと言い、それを性欲に一元論化しようとした。欲望は機械仕掛けで、精神の異常というのは機械の調子狂いのようなものだ、と彼は考える。リビドーの流体力学が人間の心をまるで機械のように組み立てる、とフロイトは言うのである。のちにフランスの哲学者ドゥルーズはそのフロイトの言葉を受けて『欲望する機械』という概念を表す。ともあれフロイトの提唱した精神分析学は斬新で、性的欲求の存在を明らかにすることで潜在意識は意識にも勝るという彼の思想は多くの人々の共感をよんだ。「我思う。ゆえに我在り」と自己の意識の存在によって自己の存在を証明しようとしたデカルト哲学への、それはアンチテーゼともなった。フロイトの斬新さは一世を風靡し、やがて彼は時の人となる。人々は彼の思想を知ろうとした。『精神分析学入門』は飛ぶように売れ、各大学は彼に講演を依頼した。しかし時期がたつにつれて、ゆがみも生じた。性欲一元論化というリビドーの考えが強烈すぎるためか、それともフロイトの持つ個性の強さゆえか。フロイト学派はユングをはじめとする多くの弟子たちの離反をうみ、やがて様々な異端思想の萌芽ともなる。これ以降、弟子たちはフロイトの学説をもとにそれぞれの思想を取り入れた新しい学派をつくり、互いに反発しあいながらも、新しい心理学研究の礎を築くこととなるのである。そうした精神分析学の歴史の中、最も異端であったのがライヒかもしれない。ヴェルヘルム・ライヒ。オーストリア出身。彼はフロイトの思想のうち性的欲求について最も共感した人物の一人であった。ライヒは性欲というものをエネルギー化して活用しようと考え、オルゴン理論というものを提唱した。オルゴンとは自然界に充満する気のエネルギーのことで、それは性的絶頂と深いかかわりを持つというものである。何やらイモリノクロヤキと一脈通ずるような彼の思想はフロイトのリビドーよりもさらに過激であるとみなされ、まず師のフロイトに嫌われた。そして彼は所属したオーストリア共産党から嫌われ、ナチスドイツから狙われ、亡命先のノルウェーを追放され、最後はアメリカで詐欺師として投獄されて獄死した。幼少期に父母に相次いで自殺されたことから始まったライヒの人生のなんとも哀しい末路である。性の解放ともいうべき思想を持って生きた彼は、今もって似非科学者の烙印を押されている。しかし一方、ラブアンドピースを旗印に掲げマリファナを吸ってギターを弾いた六十年代のヒッピーたちには高く評価されたらしい。そして現在もライヒ学派の科学者がアメリカや東京で少ないながらも活躍している、ということである。何やら変な結びになるが、とにかくフロイトの弟子にそんな人物もいたということである。

欲望の根源、というものについて考えながら、ハイデガーの著書『存在と時間』をペラペラとめくる。欲望の根源にあるもの、それは死の恐怖からの逃避ではなかろうか、と、この著書の中にそのような言葉があったような気がしたからである。『存在と時間』それはそれまでそうであることが当たり前とされてきた大前提「存在する」ということについてドイツの哲学者ハイデガーが考証を重ねた名著であるが、中盤以降は死に関しての考察により多くのページを割いていることでも知られている。人間は常に死を意識して生きねばならない、というような、そうでなければ頽落してしまう、というような、そのような趣旨でそれは書かれていたように思う。憂鬱や気だるさ、そういった気分が突然襲ってくる影に、逃れられない死の恐怖というものがあるというような。それで、なんだっけ?

私の思考は突然霧散し、とりあえず読書でもしようということになり、なので今日はここまで。


(イラスト:堂野こむすい km1607-001-12『赤鯛』)

異質なモノ

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現実にとらわれては抽象的概念を思索する者としてはいささか都合が良くない。現実とは時間の差異の消えた統合的機能の中に知覚されるもので、それはラプラスの悪魔にも似た存在であることを知るからである。フランスの哲学者ジャック・デリダは自分自身に不在なものはすべて自分に対して遅延するものであると言う。現実は真に現実的ではない。現実に見える太陽も星も、実際には時間軸にずれがあり、現在のものではないと言われている。我々はそれを同時に知覚して現実を構成する。現実は統合的機能の中に知覚される。ボードリヤール風に言うならばそれは積分的な、インテグラルな現実となる。しかしもしかすると本当は、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言うように「世界は五分前に始まった」のかもしれない。

仮想現実は現実をクローン化する。クローン化された現実は真の現実となり、真の現実は不在となる。「シュミラークルは真実を隠すものではなく、真実の不在を隠すものとなる」。置き換えられたクローンの現実は常に真の現実と入れ替わり続ける。本物は偽物にとって代わられやがて偽物が本物となり、さらにそれに対する偽物があらわれ、本物となった偽物は新たな偽物にとってかわられる。真実の空虚は決して埋め尽くされることはない。シュミラークルに向かう逃走。やがてすべてが人工的なものとなり、つまりは空虚が真実を埋め尽くし、シュミラークルの世界はできあがる。もう幻想などいらない。すべてがリアルで操作的、プログラムによって構成されるため、真実であることなど必要のない世界。いやむしろすべてが真実である絶対的な世界。虚偽の欠如した全体的真実、悪の欠如した絶対的善、否定的なものを欠いた肯定だけの世界。それはどこまでも明るく不条理であることだろう。

犯罪が凶悪化するのはこの絶対的な善に対する巨大な否定的逆転移かもしれない。幻想を否定されるハイパーリアルな世界の中、夢想家は悪と化す。強い光には強い影ができるように、強烈な正義は強烈な悪を生む。不条理な全体性の中、人々は些細な異端を探すが、異端は見つけられた途端、偽物に置き換えられる。世界は現実的でなくなり真実は不在となる。世界はやがてすべてバーチャルに置き換えられ、かつて悪の思想の考古学で異端の遺産を相続したシュミレーションによって創られる。人々は現実にあらがうが、この抗しがたい現実にあらがう者はやがて壊れる。自己破壊。「かつてはホメロスとともに、オリンポスの神々によって観想の対象であった人類は、いまでは自己自身にとってそうなってしまった。人類の自己自身の自己自身による疎外は、自己の破壊を第一級の美学的感覚として人類に体験させる段階にまで達したのだ」とドイツの思想家ベンヤミンは言う。自己破壊の美学。しかしそれはキリスト教によって自殺を禁じられた西洋人にとっては目新しいものであったかもしれないが、葉隠れの美学を重んじる日本人にとっては、逆に古い思想であった気がする。西洋社会はキリスト教を乗り越えてようやく日本思想に到達した。ところが日本はその古い日本思想を捨て、西洋思想から学ぶ。何が何やらわからない状態。日本人は新しく西洋思想を学ぶつもりで古い日本思想を学んでいるところがあるのである。ポストモダンの世界において、日本が周回遅れのトップランナーと評される所以はそこにある。

現実はシュミレーションと情報の企てによって作られる全体。ますます不確実で息苦しくなる。現実は実証性のせいで非現実的となり、シュミレーションのせいで思弁的となる。その悪の知性をもって我々は現実にたち向かう。仮想によって組まれた現実にとって、異質なものはむしろ我々自身である。我々はそれから目をそむけるための人工的真実を選ぶべきではない。「いかなる形式の否定、打ち消し、否認をもってしても、もはや否定性の弁証法も、否定の作業も問題にならない」ボードリヤールは言う。現実自体を転倒させることが重要になるのだ、と。

ただボードリヤールについては客観的現実性を発見したのは西洋文化のみであるという一文がある。このことに関しては今後また少し考慮するべきであろう。


(イラスト:堂野こむすい va1608-004『密林の猫』)

悪の根絶

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「ヴァーチャル性。これこそは究極的な現実性の捕食者かつ破壊者だ」とフランスの社会学者ボードリヤールは言った。仮想現実は客観的現実を食い尽くし、十進法は二進法に置き換えられてゆく。仮想現実、そこはある意味、天国そのものであるのだろう。人間の脳内で組み立てられた法則が自然を超越する世界。人間は平和で争わずゆったりと寝そべって時を過ごす。食べるものは豊富にあるし、不確実なことなど何もない。すべてはプログラム通り。これはハイデガーの言う頽落ではない、これこそ進歩なのである。天国は自然の森を壊し、広がりゆく砂漠に似ている。

仮想現実の世界では、音楽は純粋な波長となり映像はネガのない電気信号のみとなる。デジタルの世界にはピンボケもズレもなく、雑音もノイズもない。もしそんなものがあったとしたら、それは現実味をだすためにわざと挿入されたものであろう。そうでないならそれはバグとして除去される。現実は仮想にとってかわられ、アナログの不安定さはデジタルの純粋さに置き換えられる。この純粋さは当然、自然の産物である人間にも求められる。

十九世紀半ば、イギリスの統計学者ゴルトンによって提唱された優生学思想は世界中の学者の注目を集め、二十世紀初頭には産児制限・人種改良・遺伝子操作といった形で各国政府に取り入れられた。しかしナチスの過剰な人種政策により、それは人権問題と真っ向から対立することとなり、やがて第二次大戦の終結とともに廃れた。優生学は忌むべき思想ということで一種のタブーとなったが、それで人々の考え方が変わったかというとそんなわけはない。「知的に優秀な人間を想像する」「人間の苦しみや健康上の問題を軽減する」という優生学のスローガンはやはり魅力的であるらしく、今もって根強い人気を誇る。タテマエとして言われなくなった分、それは様々に形を変えて人々の心の奥底に幾筋もの根を生やす。

人間は無菌室に暮らすことなどできない、と私は思う。しかし仮想の現実はこの純粋さをひたすらに求める。なぜならば純粋さこそ仮想現実の正義なのだから。遺伝学に浸透した仮想現実は、優生学のスローガンのうち「知的に優秀な人間を想像する」という項目を外し、「人間の苦しみや健康上の問題を軽減する」というもののみを取り上げて、やがて結びつく。病理というバグを取り除き、人間を新たなる現実の前に連れ出す。純粋さとは、優生学のひとつの奇形であろう。

こうして遺伝学を通じ現実と結びついた優生学。「知的に優秀な人間を創造する」という項目が外れた分、ずいぶん質も落ちる気もするが、これはこれで都合がいい。優生学は形を変えて、穏やかな天国の住人を生むことに方向転換したということだ。優秀な人間はもういらない。現在求められる規範的な人間は、もはや目的を持たない、ただ病理を遠ざけられて長生きするだけの人間である。長生きすることだけを目的に、平和で争わずゆったりと寝そべって時を過ごす人間なのである。形を変えた優生学は現実を天国に変化させる。天国の住人は管理しやすい。ミシェル・フーコーの言うように、彼らは医療によって統治されているのだから。

この天国において最も問題になるのは犯罪であろう。そこでそれを予防するために、やがて病院は生まれたばかりの赤ん坊に殺菌術をほどこすようになるかもしれない。殺されるのは「悪の遺伝子」。世界は悪を根絶やしにする。すべての赤ん坊に殺菌術をほどこすのは、(警察や権力の視点からすれば)人間はみな潜在的犯罪者であるから。やがて悪は根絶され、平和で穏やかな未来がくる。純粋なる正義のもとに、悪は滅びるのである。そして悪の根絶はその後さまざまに形を変えて、夢も理想も幻想も、やがてすべて除去しさるだろう。すべての消え去った平和な天国で、きっとニーチェはこう叫ぶ。

「われわれは真実の世界を消滅させてしまった。それなら、どんな世界があとに残るだろうか。仮象の世界? いや、真実の世界とともに、われわれは仮象の世界も同時に消滅させてしまったのだ」


(イラスト:堂野こむすい va1608-003『ツキノオサガリ』)

地獄と迷宮

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醜いバケモノのキャリバンは、ナポリから来た酔っ払いを、月から落ちてきた神様だと勘違いし、家来にして欲しいと頼み込む。

「林檎の成っている処へ案内するよ、この長い爪で土の中の豆を掘ってあげる、カケスの巣の在り場所も教えてあげる、ボクはすばしこいネズミザルに罠を仕掛ける事も知っているからね、ハシバミの実が房成りになっている処にも連れて行ってあげる、何なら岩の間からカモメを捕まえて来てあげてもいい。ねえ、一緒に行こうよ」

ナポリから来た悪党たちはキャリバンの愚かさをあざ笑い、足をなめさせる。

悪党たちを神様だと思い込んでいるバケモノは、この神様こそ自分を地獄から救い出してくれると信じて、足をなめる。

何も知らない仔猫程度の頭で。

「雲がふたつに割れて、そこから宝物がどっさり落ちてきそうな気になって、そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いたこともあったっけ」

醜いバケモノはそんな話をし、クスクスと笑う。ほんの小さな幸せをさがして遠い遠い空を見上げて

ある朝、初夏のイタリア大使館通りをバビロニアの神官と歩いていた時、「ねえ君。地獄巡りの先にしか極楽は存在しないんだよ」と不意に、彼はいつになく真面目な表情で言った。

「深い闇を知らなければ己の存在する世界の明るさの認識などできはしない。地獄を巡り帰ってくるからこそ人はこの世界を極楽だと知るんだよ」と。

私は反論する。

「でも実際のところ、帰還したってそこは極楽じゃないかもしれないじゃないか」。

古来、冒険譚、迷宮譚にあるとおり人は己の未知の世界に足を踏み入れ、そこから帰還することによって己を成長させる。

人生を永遠の成長の場と捉えるならば、人は死ぬるまで新しい地獄を巡り、そこから帰還し続けなくてはいけない。そう、必ず帰還しなくてはなない。それはわかる。

しかし、その帰還した世界が極楽かどうかはまた別問題じゃないか。極楽に帰還したつもりが、むしろこちら側こそ地獄であったとか。

私は口を尖らす。

キャリバンの不幸は、現実のほうが地獄であったこと。むしろそのことにあるのではないだろうか、と。

苦しい地獄の奥底から、バケモノはいつも極楽を夢みる。可哀想じゃないか。

「いや。それでもだね。彼はもう一段深い地獄を旅しなくちゃいけないんだよ」

バビロニアの神官はいつのなく厳しい口調でそう言う。

キャリバンはすでに地獄にとりつかれている。

「だからこそ、もっと深い地獄を見るんだ。そして現実の地獄をまだマシだと知ったとき、現実は地獄から極楽にかわるかも知れない」

マシ。よりひどい地獄よりマシ。それを確認するため、人は地獄を巡る?

ひどい地獄を見て来たおかげで、現実の辛さも極楽と感じることができる?

「またこういうこともある」と神官は言う。

「地獄には特有の魅力がある。それは、帰還する困難さを放棄することにより得られる堕落の快楽。人はそこに安楽をみることもある」

迷宮と地獄は同じなんだよ、と。

地獄に迷い込んだけれど、そのまま帰ることを放棄する。その愉悦。頽落からくる愉悦。

「それを知ってしまったためキャリバンは迷宮の中に留まってしまったと言うんだね」と、私は神官に問う。

彼は立ち止まり振り返る。

夢から覚めたことを哀しく思い泣くバケモノは迷宮の中にとどまり続け、永遠に完結しない物語を欲する迷い人。帰還することを拒み地獄の中でここが良いと駄々をこねる。成程、その気持ちは私もよく分かる。永遠に終わらない物語を欲し泣く子供は私自身でもあるかもしれない。

「しかしそれでも、人は帰還しなければいけない。なぜならば、そうしなければ先がないからだ」

人は成長し続けなければいけない。成長し続けるには狭き門に入らねばいけない。

キャリバンは神にすがろうとしてナポリの悪党に騙される。

これは広き門、極楽への近道を望んだ結果だったのかも知れない。

「地獄を選ぶ。より苦しい道を選ぶ。それが成長への第一歩なんだ」

私は苦痛に顔をゆがめる。

「人はなぜ成長しなければいけないの?」

「地獄から抜け出すためだよ」

ベロッソスは言う。

「そして人は成長し続けようとする限り、他人に対し限りなく興味を持つものかもしれない、と私は思う。なぜなら他人はJPサルトルの言葉を借りるまでもなく、己にとって必ず地獄なのだから」

他人は地獄。

とすると、キャリバンの不幸は主人公の親子以外の他人と、それまで出会わなかった、というところにあるかもしれない。

あまりにもほかの他人を知らなさすぎた。他人という地獄を巡る機会がそれだけ少なかった。そのためナポリの悪党に簡単に騙された。

「キャリバンが現在存在している地獄から抜け出すには、自ら進んでもっとひどい地獄に行くしかないんだよ。その地獄から帰還すれば、現在の地獄はマシになっているだろうし、成長もしているから、悪いナポリ人に騙されることも少なくなる。そういったものだと思うんだ」

星空を見て涙するバケモノ。

その姿を思い浮かべながら私たちは爽やかな朝の散歩を楽しむ。

「良いも悪いもすべて主観。キャリバンはきっとこれで少し先に進める。そう思えばナポリの悪党に騙されたことも、まんざら悪くはないだろ?」とベロッソスは笑う。

「だけどキャリバンは愚かでも、いや、だからこそ。なんだか結構好きだけどね」

私もベロッソスに笑い返した。


(イラスト:堂野こむすい va1506-008『化物は月に涙する』)

夢見る宇宙飛行士

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原子時計の一秒はセシウム133原子の基底状態の二つの超微細準位の遷移に対応する電磁波放射の周期の91億9263万1770倍と定義される。

計測技術の進歩で天体の運行は必ずしも安定したものではないと知った一人の物理学者は、一九六七年に定められた新しい時間の概念で猫に語る。

「10万年から500万年分の1秒以下の誤差、ってどんな空間だか君には想像できるかい?」

宇宙ステーションで組み立てられるロボットアーム『テクスター』。ウィトゲンシュタインを片手にボクたちは夜空にそれを探す。

詩人、スコット・カーペンターは何かの間違いで宇宙飛行士になり、地球と宇宙ホタルの美しさに心奪われ大気圏突入の操作に失敗した。「ねえ、その時どんな気持ちだったの?」ボクが訪ねると彼はきっとこう答える。「すべては図像の世界。チカチカチカ。地球は完全な闇の空間に浮かぶ小さな小さな水風船」

絶対死の宇宙の中にぽっかりと浮かんだ水風船。こんな非科学的な現実が存在する不思議をボクたちは祈らなくちゃいけない。

死んだと思われていたカーペンター。壊れたマーキュリー七号を尻目に、イカダに揺られて呑気に瞑想している。

「パラパラパラ、ヘリコプターがオレを救出に来たんだって。なんてうるさい野暮天だ。もしもオレがジャンジャック・ルソーだったらディドロの舞台に四ツ足で登場し、ムシャムシャとレタスを食ってやるのに」

海は穏やかでイカダはゆっくりと波間を漂う。

ただいま、おかえり、ただいま、おかえり。

満天の星空は宇宙の宝石箱。いつかすべての物質はあの空間に帰ってゆくんだ。星の街のプラネタリウムで八十八個の星座を覚えて、コリオリスで目を回して。

熱力学の第二法則がもしこの世のすべてに適用されるとするならば、そのうち宇宙も死ぬはずだけれど。それでも心に希望を抱いて、生命すべてのけなげさを慈しみ、毎日明るく楽しく暮らす人々。

猫はウィトゲンシュタインを片手にボクに言う。「対象が世界の実体を作る」と。だけど分からないんだ。宇宙は何と比較しうる存在なんだろう?

パスカルが思考によって包んだ宇宙とサルトルが定義した無。エントロピー増大の法則で混沌へと向かうエネルギーの流れ。熱損失、熱損失、熱損失。そうだよ。ウィトゲンシュタインはオブジェクト型のスクリプトと同じ概念で論理哲学論考を書いたのかもしれないんだ。猫は考える。「文の部分にして文の意味を特徴付ける各部それぞれを私は表出(シンボル)と呼ぶ。(文自体が一個の表出である)表出とは、文の意味にとって本質的なる一切、しかも文が相互に共有することのできるすべてである。表出は形式および内容の特徴を明示する。表出の生じうる場は文だが、表出はあらゆる文の形式を前提とする。表出はある一群(クラス)の文に共通する特徴の微表である。云々」

宇宙を見ながらウィトゲンシュタインを考えるとなぜかプログラミングに行き着いてしまい、猫とボクは少し困惑する。

地球の自転や公転から決められていた時間は、いつしか水晶振動子によって決められるようになり、今はセシウム原子時計によって決せられるようになった。

昔の1秒と今の1秒は微妙に違っているみたいだけれど、500万年分の1秒の分からないボクたちにはあまり関係のない話かも知れないね。等々。

イカダでぼんやり空を見上げて猫とたわいない会話を楽しんで。それはきっとステキな冒険。


イラスト:堂野こむすい va1506-003『カンブリアの海』)

色彩都市計画

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今回の殺人事件について詳しく話していただけませんか? と、タウトは大きな葉巻をくわえ、私と老人に問いかける。しかし私たちは話すべき言葉をどこにも持たない。何故なら殺人事件などどこにも起こらなかったのだから。

二頭立ての馬車が煉瓦造りの街中を砂煙をあげて走る。ケーニヒスベルク土木建築学校の校舎前にある小さな珈琲店。

タウトの誘いに応じ、私と老人はテーブルにつく。

「事件がなかったなんて嘘でしょう? だってあんなにたくさんの目撃者がいるというのに」

私は窓の外を眺める。往来には多くの人が行き交っている。時代も人種も空間もすべて混ぜこぜに。

と、不意に一人の男が人ごみをかきわけ、東方よりかけてきた。そして私たちの見る前でナイフを取り出し一人の女を刺した。女は血を流して死んだ。 男は叫んだ。 「聞け愚民ども。このオレが嫉妬に身を焼くように見えるか? 月の満ち欠けにつれて、次から次へと新しい疑いをつのらせる男だと思うか? 見くびるな。オレは疑いが生じたら即座にそれを解いてみせる。喜んで山羊にでもなってやるぞ。お前の言うような、そんな根も葉もない憶測で心を悩ますくらいなら。断じてオレは嫉妬などおこさんぞ。妻が美人だと言われようと、交際好きで話し上手で、歌も楽器も踊りもうまいと言われようと。けっこうではないか。操さえ正しければ、かえって、あれを引き立てる。オレにしても、自分に引け目を感じて、もしや妻がそむきはしまいかなどと、疑ったり恐れたりしない。妻は自分の目で、このオレが選んだのだ。いいかイアーゴ。オレは疑う前にまず見る。疑えば証拠を探す。証拠があれば道はただ一つ。愛を捨てるか嫉妬心を断つかだ」

まわりの者たちが男を囲んだ。男は暴れもせず簡単に取り押さえられた。

「これでも殺人事件はなかったというかね?」タウトは私たちをじっと見た。

「オセロ将軍は処刑となるだろう」老人は答えをはぐらかし、珈琲を飲みながらただそうつぶやいた。

タウトは不思議そうに老人を見た。

「あなたはここに至ってまだ殺人は見なかったと言い張るのかね?」

老人は知らん顔であらぬ方向を眺めている。

老人とタウトのやり取りを聞きつつ、私は「シェークスピアの悪意」について考える。どの物語にも、その根底に流れているものは悪意。シェークスピアの前に救いはない。

イアーゴ、イアーゴ。

殺人はあったのかも知れないし無かったのかも知れない。

タウトはいらつき机をコツコツ叩いていたが、「もういい」と叫んだかと思うと伝票を持ってレジに向かった。

私と老人は無言のまま、窓から血まみれの路上を見ていた。

それは美しい赤。ここは色彩都市。

私たちはここで珈琲を飲む。美しい褐色。そう、ここは色彩都市。

数日後、トルコ建設省企画室のタウト室長の死が新聞に小さく報じられていた。

マクデブルク色彩都市計画。

殺人はあったのかなかったのか。それは誰も知らない。


イラスト:堂野こむすい va1505-004『色彩都市』)

プラネタリウム

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西暦前二千百七十年というと今から約四千年の昔、エジプトでクフ王がピラミッドを作った頃、北極星はリュウ座のツバンであった。現在の北極星すなわちこぐま座のしっぽが北極星となったのは今から約二千年前であり、今後約六千年たつとケフェウス座の星が、さらにそこから一万二千年後にはこと座のベガが北極星となるという。

冬のある夜、私たちは公園のブランコに座り満天の星空を眺めていた。オノコロ島の空はとても澄んでいて、私たちはただ白い息を吐きながら、その神秘的な星空の世界にうずもれていた。

星空を見ているとどうしてこんなに幸せな気持ちになれるのだろう?」とヨハンスに尋ねるとそれは人間などを遥かに超越した世界がそこにあるからだと笑いながら答える。

空には生死なんてないんだ。ただ美しく厳かに存在するだけ。買ってきた肉まんを懐からだし、空を見上げながら口に入れた。

カシオペア座の横に見えるのがペルセウス座。もしもお金持ちになったら透明な家を作ろう。誰も住んでいない奥山の広場に透明な家を作って、ずっと空を見ながら眠るんだ。もしも恋人ができたならその恋人とソファを並べて、とりとめのない話をしながら星空を眺めて暮らすんだ。

ヨハンスが笑った。「女の子はもっと現実的だから、君の描くロマンチックなんてきっとクズカゴに捨てられておしまいさ」「じゃあプラネタリウムの経営でもいいよ。それならお客さんにお金がもらえるから生計も成り立つじゃないか」私は少しむきになった。「だめだめ。プラネタリウムを経営して一体どれだけのお客さんが来るというんだい。お客さんは君よりよほど現実主義者さ。君のロマンチックは、やはりクズカゴ行きだね」

遠く遠く、今から一億年も経つと太陽系そのものがヘラクレス座大星団の中に吸収されてしまうという。

私たちはまた黙って星空を見上げた。

ホリーゴライトリーは、もしもこの世に自分の存在できる『ティファニーのような空間』を見つけることが出来さえすれば、仔猫に名前を付けてそこで暮らす、と言ったけれど、本当にそういう場所をさがしているのなら、それはたぶん存在しない。なぜならすべての物質には限りがあり、その一瞬一瞬の煌めきこそが生きている、あるいは在るということの証にほかならないのだから。

「心だってそうさ。いつだってずっと変わり続けている。そして変わるたびにキラキラと輝くんだ」そう、それが存在しているということなんだから、とヨハンスは言った。だから心が変わっても守らなくちゃいけないものを自分で作っておかなくちゃいけない、とも。

「天上の星の輝きと、我が心の内なる道徳律」カントの言葉に感動した湯川秀樹博士の気持ちが、小学生の頃はどうしてもわからなかったけれど、今なら少し分かる気がする。銀河鉄道の夜の美しさと同じようなものだ。みんな生きているんだ。温かくても冷たくても心があってもなかっても。そう我々人類の次元で生きていても死んでいても、それは別次元では半永久的運動を続けている。半永久だけれど永遠じゃない。北斗七星の柄杓型が約二十万年後にはまったく反対になるなんて、なんて途方もないロマンチック。半永久だけれど永遠じゃない。とても美しいものを私はその中に見出す。そして私は空を見上げる。そのままブランコをギィコギィコとこいでいると、やがて目が回って落っこちる。ヨハンスはあははと笑った。人間の持つ感覚なんてそんなもんさ。まったく不安定な中を上手にバランスをとって生きている。ちょっと星空に魅かれたらはやこのとおり、ちゃんとこけている。「だから人間は空なんて見ていないで足元を見て生きなきゃいけないのさ。他の動物はみんなそうしてるぜ? 猫も犬も綺麗だなぁなんて夜空を見ない。彼らは現実社会の中にちゃんと落ち着いて生きているのさ」

猫の生活もいいと思っていたけれど、この空の美しさが分からなくなるのなら猫にはならないほうがいい。たとえ世の中の見えていない、現実の分からない馬鹿者と言われ笑われようと、奥山の透明な家を夢見て暮らしていたい。

北風がぴゅうと吹いた。ヨハンスはぶるっと震える。「毛布を持ってくれば良かったね」ブランコをこぎながら私は言った。ヨハンスは「うん」と生返事をして空を見ている。

オリオン座の三ツ星の前には直径三・四光年の散光星雲があって、そのため中心の星は青くぼやけて見える。ヨハンスはため息をついた。地球からの距離約六百光年。「そろそろ帰ろうか」私が言うとヨハンスは寂しそうに笑う。君は帰るのかい? そうだね。ボクもそろそろ帰らなくちゃいけない。コートのポケットに手を突っ込み、じゃあ、なんてボクたちは別れるんだ。オリオンの肩で輝くペテルギウスみたいに。

ヨハンスが立ち去った後、私は星空を見上げくしゃんとひとつくしゃみをした。

二十億光年の孤独だね。

星空の下、私は旅館の窓から忍び込んで、誰にも気づかれないようにそっと自室に帰り、友達の頭を踏んづけてそのまま毛布にくるまって眠った。


イラスト:堂野こむすい va1504-009『星空』)

剥製

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「ボクは彼女の剥製と遠く異郷の旅をする」 ソビエトの映画カメラマン、ティッセーはそう言ってストックホルムを出る。のち十月革命で映画写真委員会に加わり多くの歴史的記録を残す彼も、当時は一介の学生にすぎなかった。恋人の剥製を背負い彼は祖国を捨てた。

「行き先が決まっていないなら、ジャポンに行ってみるがいいさ。そこではまだ神様も動物も人間もあまり区別がないからさ」と、出会った魚が教えてくれる。陸を歩く南米の肺魚。地元名ロラッハ。彼はとてもおしゃべりで、あることないことベラベラと喋る。

「もしもジャポンに行くならさ、その国の王様スサノヲを訪ねればいいさ。あいつは海原、根の堅州国というところで今日も威張っているからさ」

アトランダ空港の待合室。剥製の少女は冷たい目で、じっと遠くを見つめている。混沌の世界ジャポン。それも面白いかもしれない。ティッセーは彼女の髪を撫でながら喋るロラッハの口元を見る。

ある秋の夕暮れ。私は古びたホテルのロビーでパリの外交官ブリエンヌとハービーの剥製について議論を交わす。窓の外にはどこまでも広がるマロニエの並木道。遠くシャンゼリゼをのぞむ豪奢な風景。静かにピアフの歌声が響く。

「即ち其れ芸術の極み也」とブリエンヌは大上段に構えたのち「天然の産み出したあらゆる素材は彼の手で一度細かく解体され、より美しき人工造形物として生まれかわる。彼には自然を分解する天賦の才が有るわけだ」と鼻息荒く続ける。

私は紅茶にミルクを入れ「いかに彼が天才であろうと自然にかなうすべはなかろう。自然は超越する存在。人工物は結局、相対としての存在」などと答える。小林秀雄の言葉を借りるならば「すべての判断を拒絶して存在するものだけが美しい」等々。パリの街角にパラパラと小雨が降り出す。

剥製の少女はマリーパスモア。ブロンドの髪と小生意気な口唇を持つ少女。彼女は十七歳の時、不慮の事故で命を落とす。事故の詳細は誰も知らない。ただ言えることは彼女はその死後、ほとんど間をおかず剥製師ハービーの手によって剥製となったということ。彼女はまるで生きているように瑞々しく、美しいまま剥製となった。

「シュバルツコップの公演に行ってきたよ。たまにはオペラもいいものさ」と枯れ木のような声でティッセーは言う。 サラトフ州北西部の小さな街ペトロフスク。

「ハービーは一緒じゃなかったのかい?」

「彼は今、エジプトだって聞いたね。でもなんで私とハービーが一緒にいると思ったんだい?」

ティッセーは不思議そうに私の顔を覗き込み、私は濃いウオツカを口に含む。

その年の暮、南米に面白い魚がいたとハービーは私に一匹の魚の剥製を売った。哀れなるロラッハ。おしゃべりな彼はすっかり内臓をくりぬかれ、ただの肺魚の置物と化した。私はオフィスの隅に大きな水槽を買ってきて、彼の作り上げた剥製を中心に幻想的なジオラマを組んだ。 なるほど、自然に楯突いているわけじゃない。彼の剥製は美しい。生きていた頃の何倍も。このロラッハは美しい。ハービーに命を奪われて、肺魚は永遠の美を手に入れた。

「彼の芸術は自然そのものの再構築。ブリエンヌの言葉にも一理あったということか」。

その夜、私はティッセーの宿からマリーパスモアを盗み出し、肺魚の水槽の中に入れた。彼女はまるで人魚のように、美しく泳いだ。


イラスト:堂野こむすい va1504-008『肺魚』)