壊れゆくメロディ

夢見る宇宙飛行士

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原子時計の一秒はセシウム133原子の基底状態の二つの超微細準位の遷移に対応する電磁波放射の周期の91億9263万1770倍と定義される。

計測技術の進歩で天体の運行は必ずしも安定したものではないと知った一人の物理学者は、一九六七年に定められた新しい時間の概念で猫に語る。

「10万年から500万年分の1秒以下の誤差、ってどんな空間だか君には想像できるかい?」

宇宙ステーションで組み立てられるロボットアーム『テクスター』。ウィトゲンシュタインを片手にボクたちは夜空にそれを探す。

詩人、スコット・カーペンターは何かの間違いで宇宙飛行士になり、地球と宇宙ホタルの美しさに心奪われ大気圏突入の操作に失敗した。「ねえ、その時どんな気持ちだったの?」ボクが訪ねると彼はきっとこう答える。「すべては図像の世界。チカチカチカ。地球は完全な闇の空間に浮かぶ小さな小さな水風船」

絶対死の宇宙の中にぽっかりと浮かんだ水風船。こんな非科学的な現実が存在する不思議をボクたちは祈らなくちゃいけない。

死んだと思われていたカーペンター。壊れたマーキュリー七号を尻目に、イカダに揺られて呑気に瞑想している。

「パラパラパラ、ヘリコプターがオレを救出に来たんだって。なんてうるさい野暮天だ。もしもオレがジャンジャック・ルソーだったらディドロの舞台に四ツ足で登場し、ムシャムシャとレタスを食ってやるのに」

海は穏やかでイカダはゆっくりと波間を漂う。

ただいま、おかえり、ただいま、おかえり。

満天の星空は宇宙の宝石箱。いつかすべての物質はあの空間に帰ってゆくんだ。星の街のプラネタリウムで八十八個の星座を覚えて、コリオリスで目を回して。

熱力学の第二法則がもしこの世のすべてに適用されるとするならば、そのうち宇宙も死ぬはずだけれど。それでも心に希望を抱いて、生命すべてのけなげさを慈しみ、毎日明るく楽しく暮らす人々。

猫はウィトゲンシュタインを片手にボクに言う。「対象が世界の実体を作る」と。だけど分からないんだ。宇宙は何と比較しうる存在なんだろう?

パスカルが思考によって包んだ宇宙とサルトルが定義した無。エントロピー増大の法則で混沌へと向かうエネルギーの流れ。熱損失、熱損失、熱損失。そうだよ。ウィトゲンシュタインはオブジェクト型のスクリプトと同じ概念で論理哲学論考を書いたのかもしれないんだ。猫は考える。「文の部分にして文の意味を特徴付ける各部それぞれを私は表出(シンボル)と呼ぶ。(文自体が一個の表出である)表出とは、文の意味にとって本質的なる一切、しかも文が相互に共有することのできるすべてである。表出は形式および内容の特徴を明示する。表出の生じうる場は文だが、表出はあらゆる文の形式を前提とする。表出はある一群(クラス)の文に共通する特徴の微表である。云々」

宇宙を見ながらウィトゲンシュタインを考えるとなぜかプログラミングに行き着いてしまい、猫とボクは少し困惑する。

地球の自転や公転から決められていた時間は、いつしか水晶振動子によって決められるようになり、今はセシウム原子時計によって決せられるようになった。

昔の1秒と今の1秒は微妙に違っているみたいだけれど、500万年分の1秒の分からないボクたちにはあまり関係のない話かも知れないね。等々。

イカダでぼんやり空を見上げて猫とたわいない会話を楽しんで。それはきっとステキな冒険。


イラスト:堂野こむすい va1506-003『カンブリアの海』)

この記事について

このページは、komusuiが2015年6月10日 13:40に書いた記事。

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