第09話 空想と現実の狭間 001
若宮駅南口を出て東に徒歩十一分。若宮レジデンスの六一〇号室の部屋に帰るとボギー牛松は腕立て伏せをしていた。リビングのソファーを壁に立てかけヨガのマットを床に敷いて、古いカセットプレーヤーで『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を流しながら、彼は黙々と汗を流していた。「それ、いつからやってるの?」と涼太がスーツを脱ぎながら聞くと、「そんな昔のことは覚えちゃいねえ」と彼はすっかりボギーになりきって返事をした。見た目は浅黒く太っていて、おまけに額に三本の傷が深く刻まれているので、まったくアブドーラ・ザ・ブッチャーのような容姿であるが、その彼の体の中にはハードボイルドの血が流れていた。キザなセリフをこよなく好み、時々自分に酔いしれている、彼はそんな男であった。涼太がスーツからジャージに着替えてリビングに戻ると、彼はクイッと首だけでこちらを向いて、「恋の話なら聞かないぜ」と言った。涼太はギクリと振り返り、「な、なんでボクが恋の話なんてするんだ?」と尋ねた。牛松は腕立てをしながら、「お前の声、今日はやけに上ずっている。おまけに靴を脱ぐスピードがいつもより三秒早かった」とまるで探偵のようなことを言った。「そ、そんなもんかねえ」と涼太は少し冷や汗をかきながら、そろりそろりとリビングを離れて冷蔵庫を開けて缶ビールをふたつテーブルに並べた。「缶ビールを置いてもオレは行かない」牛松は腕立てをやめて、今度は屈伸をしながら言った。涼太は缶の蓋をひとつ開け、一口飲んでからキッチンに立ち、「野菜炒めも作るからさ」と声をかけた。牛松の屈伸が一瞬止まった。そして、「豚肉多めなら、聞いてやる」と、ひとこと言ってから再び屈伸運動に戻った。