『水二棲ム』 10 終焉
10-01
「エルネスト様?」と細川は不思議そうな顔をした。ロザリアは細川の顔を見て、「ええ、そう。エルネスト様。昔、祖父に見せてもらった雑誌の写真と、まるでよく似ていらっしゃるの。あの方は間違いなくエルネスト様ですわ」と言った。蘭次郎は少し考えて、「ああ、キミのおじいさんの手紙に書かれていた四人の囚人のうちの一人だね?」と言ってから、アッと驚きの声を上げた。「そうか、彼らはここ、この沼の底の迷宮の中、今日まで生き延びて、そうして子供までなしたんだ」細川も驚いた。「じゃあ、ここにいる人たちは皆その囚人たちの子供たちですか?」蘭次郎は頷いて、「そういうことになる」と言ったあと、「エルネストと言えば、先ほどの手紙に出てきたエルネスト・ゲバラ。キューバの革命家とか言っていた人物だ」と言った。そして少し首を傾げ、「しかし彼が生きていたのは、もうずいぶん昔の話で、もし仮にまだ生きていたとしてもヨボヨボの老人になっているはずであろう」と考え、「ああ、そうか。ロザリアが識別したのはたぶん、彼の子供ではないか?」と続けた。「父親がその人物だとすると母親は?」細川が尋ねた。「もちろん女優のエミリア・ヴィダリ。女性は彼女だけだ」蘭次郎が答えた。「でも、二人とも百年近くも前の人たちですよ? その子供がまだこんなに若いなんて」と細川は口に出してハッとした。「そうか、ここにいるのはもう子供ではなくて、孫や曾孫なんですね」細川はそう気が付いて、「ああ、では、ここにいる人たちはずいぶんな近親婚を繰り返してきたことになりますね」と唸った。蘭次郎も顎に手を当て、「うむむ」と唸った。ロザリアはゆっくり振り向いて二人に言った。「だから私がここに来たのよ」
10-02
囚人たちの子孫は水の底で暮らし、本当に水棲人となっていたのだ。沼の底でエビを食べ、藻を食べて生き延びてきたのだ。しかし新しくそこに移住してくる人はいない。彼らが子孫を残すためには兄弟姉妹で結婚するしかなかったのだ。そうして血はどんどんと濃くなっていった。こんなことを繰り返していてはとても長続きするわけがない。彼らも悩んだことであろう。そんなおり、ロザリアの祖父マリオ・ロンバルドが記憶を取り戻したのだ。そして孫娘のロザリアにエルネスト・ゲバラの写真を見せたのだ。悪を憎んで正義を為そうとした若き日の、その英雄の話を聞かせたのだ。そしてその彼は沼の奥底にある不思議な迷宮、アレキサンドライトの原石がキラキラと煌めき転がるところにいると話したのであろう。その甲斐あって、やがて孫娘は写真の男に淡い恋心を抱くようになり、その沼底にありという不思議な宝石の迷宮で、彼と暮らしたいと思うようになったのかも知れない。祖父が暮らした奇妙な迷路の世界を愛するようになっていたのかも知れない。そして今度の探検を思い立ち、細川を巻き込み、蘭次郎を案内役に選んだ。「ロザリア」と細川は呼びかけた。ロザリアは細川に優しく微笑んで言った。「ここはもっとにぎやかになるわ。旅の途中、私はたくさん手紙を書いて、アレキサンドライトの原石の捕れるこの場所を多くの人に知らせたのよ。きっとまた、誰かがここを訪れて、新しい血を入れてくれる。そうしてこの水棲人の国はどんどん大きくなっていくのよ」ロザリアは蔦の縄をはらりと落とし、二人に向かって手を振った。そしてあの水棲人たちのいる広場を目指して、暗がりの中に姿を消した。 おしまい。