『水二棲ム』 09 迷宮からの脱出

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「そんなある日、なんと偶然にも、私はこの沼から逃れ出ることができたのだ。どうしたわけか、その日は泥の引く力が弱かった。私はこのチャンスを逃してなるものかと大きなワラビにしがみつき、それを懸命に登った。そして泥の上まで足が出ると、迷わず巨大なオニバスに飛び移った。オニバスは少し揺れたがなんとか浮力を保った。私はほっとため息をついたが、そのままオニバスの上で気絶してしまった。そうして何日、泥の川をさまよったのであろう。ガリガリに痩せて半死半生となっていた私はパラグアイの村に流れ着き、そこの村人たちによって助けられた。泥人形ひとつ抱いた格好で倒れていた私は、その後、村人たちの介抱により、ようよう意識を取り戻した。アルゼンチン側に流れ着いていたなら、再び逮捕されたかも知れないが、パラグアイに流れ着いたのはまったく運が良かった。またそれ以前の記憶をすっかり忘れていたのも、まったく運が良かった。このおかげで私は難なく祖国イタリアのパレルモに帰り、そこで普通に結婚もし子供も設けることが出来た。そうしたある日、ちょっとした地震があった。たいした地震でなかったのであるが、その時、古い泥人形が、パラグアイで気絶してる間、ずっと離さずに抱いていた自分の守り神のように考えていた人形が、棚から落ちて壊れたのだ。私は愕然とした。何とも不安な気持ちで、粉々になった人形に駆け寄った。すると、その中から、アレキサンドライトの原石が出てきたのである。そして私はすべてを思い出した。かつて自分がアルゼンチンの革命に闘志を燃やしていたこと。アグスティン・ペドロ・フスト大統領の軍隊に捕えられ処刑されかけたこと。そして沼の底の大迷宮で仲間とともに暮らしていたこと」

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「すべてを思い出した私は己の顔を鏡に映して愕然とした。時は無情にも流れ、あの頃はまだ三十代になったばかりであった私の顔は、もう六十代の顔になっていた。額には深くしわが刻まれ、髪の毛はすっかり白くなっていた。ああ、私は仲間のことを忘れて、もう何十年もひとり平和に暮らしてしまったのだ。なんと薄情な男であろうか。自責の念がふつふつと湧き、居ても経ってもいられなくなった。そして今からでも遅くはないかも知れないと考えるようになり、いまだ水中の迷宮に囚われている仲間たちを助けるべく各地を行脚するようになった。著名な知識人に会えばアレキサンドライトの原石を見せて、それの群生する場所があると説いた。フランスの自動車会社シトロエンの探検隊、アメリカのナショナルジオグラフィック協会の探検隊、日本の大谷光瑞探検隊。世界に名だたる探検隊には隈なく手紙を送り、南米への探検隊を組織するよう説いて回った。しかし誰も、私の話になど耳を貸さなかった。狂人の夢と笑われるのがおちであった。そうして誰にも相手をされぬまま、私はこうして一生を終えることとなった。結局あの沼がどこにあるのか、私は知らない。その地がどこであるのかも、示すことができない。残念ながら私は何も知らないのだ。ただ南米のアルゼンチンか、パラグアイの付近であろうことは確かである。そして今もあの沼底の迷宮に、我が同志たちは暮らしているかも知れない。そんな気がする。もし誰か私を哀れと思う者があるならば、あの沼底に興味を持って、できれば探検隊を組織して欲しい。そこには膨大なアレキサンドライトの原石がある。それで人を動かして、できれば彼らを救ってやって欲しい。彼らはきっと生きている」

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 手紙はそこで切れていた。蘭次郎がそれを返すと、「この手紙は、私の祖父が残したものなのです」とロザリアは封筒にしまいながら言った。そして、「あのアレキサンドライトの原石は、この手紙とともに、祖父が私に預けたものなんです」と付け加えた。蘭次郎が黙って先を促すとロザリアは頷き、「私は祖父からこの沼底の迷路の話を聞きました。そしてどうしても行きたいと思ったのです。それで細川さんに依頼しました」と言い、「ともかく奥まで進みましょう。縄の続くまで」と依頼した。「そうですよ。ボクも早くアレキサンドライトの原石がゴロゴロと転がっている風景を拝みたいです」と細川はロザリアの加勢をした。蘭次郎は二人に押されるような恰好で、「仕方ない。とにかくここまで来たことであるし、縄が届くところまでいくか」と、蟻の巣のように入り組んだ迷路の奥へと先に立って進んで行った。枯れきった木々の間をぬって続く地下の大迷宮。三人は縄と懐中電灯の灯りを頼りに奥へ奥へと進んで行った。と、不意に明るい場所に出た。「ああ、これがヒカリゴケの部屋だな」と蘭次郎は思い、あたりを確かめた。岩や古木がテーブルや椅子のように置かれ、そこには今も人が住んでいるような雰囲気があった。「そんなこと、あるだろうか?」と不思議に思いながらも先に行くと、少し離れた広間のような場所に、何と数人の人影らしきものが見えた。「まさか」と蘭次郎は双眼鏡を目に当てた。果たして、それはやはり人であった。四十年恰好の男がいて、そこから順々に五、六才くらいの少女まで、十数人の人たちがワイワイと焚火を囲んでいるのであった。「いたんだ。水の底に棲む人が本当にいたんだ」蘭次郎は目を大きく見開いて言った。

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 彼らの衣服は大きな葉っぱを前後に合わせたような簡単なものであった。しかしこの地下迷宮の中ではあの程度の衣服でも十分暖かくしのげるのであろう。「ジメネス教授の想像したような、エラ呼吸をする人間、沼底棲息人(インコラ・パルストリス)ではないけれど、彼らは確かに水の底に棲んでいる。彼らはまさに水棲人なのだ」蘭次郎はそう感嘆した。そして双眼鏡をロザリアに渡した。ロザリアはそれを目に当てた途端、「ああ、あの人」とつぶやいた。そしてひとりフラフラと奥へと進み始めた。驚いた細川と蘭次郎は後を追った。彼女は二人の先に立ち、枯れた幹がうねうねと張り巡らされた、かつて地上にあるときは森林であったろう名残のある地下迷宮を、小走りに駆け出した。蘭次郎と細川も小走りになって、「待って、急いじゃいけない」と呼び掛けた。そうするうち、二人の胴はきゅっとしまって、それ以上進めなくなった。「縄はここまでです」と細川が言った。「ああ、これ以上は進めない。縄がなくては迷宮を戻る事はできない」と蘭次郎も頷いた。そしてつと前を見ると、なんと不思議なことにロザリアの縄だけがズルズルとまだそのまま奥へと進んでいるではないか。「ひょっとすると、彼女は茅に縄をくくるふりをして本当は結んでいなかったのでは?」と細川がつぶやいた。蘭次郎はハッと驚きロザリアの縄をつかんだ。そして、「ダメだ、戻るんだ」と呼びかけた。ロザリアはその声に反応しゆっくり振り向いた。そして、まるで恍惚とした表情で笑いながら、「ねえ、見てくださいよ。あそこに二十四、五の方がいるでしょう? あれは間違いなくエルネスト様。いえ、その血を引き継いだ方ですわ」と言った。