『水二棲ム』 08 ロザリアの秘密
08-01
翌朝、干し魚を焼いて朝食をとったあと蘭次郎は、「まあ乗り掛かった舟だ、今日、この泥の沼に突入しよう。水棲人についてはもう期待できないが、それでもロザリアの秘密とやらには興味あるしな」と笑った。そして千フィートの蔦の縄を三本肩に担ぎ、大きなオニバスの葉を舟にして、五本の巨大ワラビの場所まで漕ぎだした。そんなオニバスの舟の上から沼を見て、「なんて綺麗なのかしら」とロザリアがポツリと言った。朝日を浴びて真っ赤に染まった水面に、ニョキニョキと伸びた巨大なワラビ。毒々しく腐乱した泥土さえも妖しく美しく反射する。蘭次郎もしばしそれに見とれていたが、やがて舟は五本並んだ巨大ワラビの側についた。「さあ、ここからは常識を信じちゃいけない。オレだけを信じるんだ」舟を付けると蘭次郎は二人に向かってそう言って、ワラビの周りに集まった浮き木に飛び移った。そしてその浮き木を頼りに沼の上を進み、巨大ワラビの近くにある茅、腕ほどの太さのあるその茅に縄をきつく結んだ。続く二人もそれに倣って、浮き木の上を飛び渡り、それぞれ茅に縄を結んだ。「よし、いいぞ。この沼の内部についてはもうオレの中で仮説が出来上がっているから、二人は何も心配いらない。ただオレについてくれば大丈夫」と蘭次郎は力強く宣言し、「さあ、これからオレが飛び込む場所に同じように飛び込むんだ」とドブンと沼に飛び込んだ。蘭次郎の姿は沼の中にすうっと吸い込まれるように消えていった。「なんだって? 沼に飛び込むだって?」細川がどうしようかと躊躇している横でロザリアは何のためらいも見せずに飛び込んだ。こうなっては仕方がない、「ええい、ままよ」と細川も腹をくくって飛び込んだ。
08-02
飛び込んだ途端、泥は視界を遮って鼻や口から入り込んだ。細川は早くも後悔した。この縄を頼りに浮き上がり陸地に戻りたいと思った。しかしどうした塩梅か泥はどんどん底に向かって流れるようで、なかなか上にあがれない。「これは底なし沼だ」と細川は思った。ずるずると底に引きずり込まれ、「ああ、ボクはここで死んでしまう。あの探検家に騙された」と蘭次郎を恨めしく思った刹那、どしんと尻もちをついた。試しに口を開いてみると、泥ではなく、空気が肺に入ってきた。「ああ、生きている」と細川はホッと安堵に胸をなでおろし、ゆっくり辺りを見回した。あたりは暗闇であったけれど、ロザリアと蘭次郎の気配がした。「ここはどこです?」と細川が尋ねた。「ああ、ここは地下の大迷宮だ」と蘭次郎は言った。そして懐中電灯をパチリと点けて、「オレの予想が当たった。この場所はかつて溪谷の密林だったんだ」と言った。かつてこの密林は地表にあった。ところが地滑りがおきて、溪谷は密林ごと地底に埋まってしまった。その上に、ピルコマヨ、あの移動する川の濁流が流れ込んだ。そして川の水は沖積層の柔らかな土に浸みこみながら、埋まった樹木の間をぬって道を作っていった。「そしてここに、どこに行くのか、どこで終わるのかもわからない地底の迷路ができたんだ」細川は不思議に思って尋ねた。「でもどうして、沼の水はこの迷路の中に流れ込まないのですか?」蘭次郎はさも当然というふうに頷いて、「沼の底にたまった藻が、蓋の役目をしているんだよ。沼の底に大穴が開いても、ピルコマヨの運んでくる大量の藻がすぐにそれを塞いでしまう、そういった仕組みで、この水底の大迷宮は存在しているんだよ」と言った。
08-03
不意にロザリアが、「ああ」と感嘆の声をあげた。細川はビクッとして、「どうしたんです。何があったんです?」とヒステリックな声を上げた。ロザリアは細川に何も答えずポケットから古びた封筒を取り出して、蘭次郎に手渡した。蘭次郎がそれを受け取ると、「これが私の秘密です。ああ、やはり実際に存在したのですね」とロザリアはつぶやいた。蘭次郎は懐中電灯で照らし封筒から手紙を取り出した。その手紙にはこう書かれていた。「その場所は、かつて処刑場であった。軍事政権を倒そうと計画した革命家、千人近くの者たちがその場所に連れてこられ、撃ち殺された。泥沼の流れは非常に遅く、撃たれた遺体は流れずに、泥の中に呑み込まれた。ここは罪人の遺体処理に、もってこいの場所であった。私も、そうして殺される運命であった。その日、この地に連れてこられた囚人は、四人であった。一人は私、マリオ・ロンバルド。一人は日本人学者の三上重四郎。一人は女優のエミリア・ヴィダリ。一人はキューバの革命家、エルネスト・ゲバラであった。四人はそれぞれ別の地域で革命運動をしているところを捕えられた。そして各地の刑務所をたらい回しにされたあげく、処刑と決まって送られてきたのであった。処刑の刻限、我々は泥濘に立たされて、兵士は機関銃を構えた。その時、「泥に飛び込め」とエルネストが叫んだ。我々は何も考えず、そこ言葉を合図にして一斉に泥の中に倒れ込んだ。兵士たちは慌てて機関銃を乱射した。弾丸が雨あられと降る中、我々は泥に潜った。よく生きのびられたものだと思う。我々は泥の中を潜り続け、本当に奇跡的に生き延び、そして沼の底にある大迷宮へと逃げこんだのだ」
08-04
「水の底に四季はなかった。ここは暑くもなく寒くもなく、とてもしのぎ良い場所であった。我々はエビや藻を食べながら命を長らえ、時には陸に上がることを目指した。しかしこの泥はどういうわけか我々を捕えて離さず、少し水から浮いたと思えばすぐに足を引っ張ってこの迷宮へと戻した。泥はまるで生きているように、我々を捕えて離さなかった。それでも苦労して水上に顔出せたこともあった。女優のエミリアは絡みつく泥から逃れるため、着衣をすべて脱ぎ捨てて、それでようやく水面に出た。そこに見知らぬ誰かがいた。エミリアは驚き、もがいていた手足を止めた。途端、泥は再び彼女を捕え、沼の底に引きずり戻した。エミリアの話を聞いた三上博士も、助けを呼ぼうと水面に顔を出した。しかし今度は探検家が驚いて、そのまま逃げ帰ってしまったのである。なんともだらしのない探検家ではないか」ここまで読んで蘭次郎は、「ううん」と唸った。「ジメネス教授とその探検隊の見た水棲人の正体はこの二人だったのか」とつぶやいて、さらに先を読み進めた。「我々は沼底の迷宮を探検するうち、ヒカリゴケの茂った場所を見つけた。そこには比較的乾燥した空気があり、暮らすにはちょうど良さそうであった。また、妙にキラキラ光る鉱石のゴロゴロ転がる場所もあった。鉱石に詳しい三上博士はその石を見て、アレキサンドライトの原石だ、と言った。そして、もしこれを地上に持って出ることが出来たなら、我々は途方もない大金持ちになれるぞ、とも言った。しかし現実問題として、泥の沼より外に出られない我々にとって、それは無用の長物であった。この泥の沼によって隠された迷宮は、我々を殺しはしなかったが、それだけであった」