『水二棲ム』 07 魔境突入前夜
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エステロス・デ・パチニョに踏み込む前の準備として、一行はまずフォルモサの北東大学に行った。そこの資料室にジメネス教授の作成したピルコマヨ周辺の地図があると知ったからである。蘭次郎は学芸員と交渉し、それを丁寧に書き写した。そして一週間ほど研究したのち、いよいよ密林へと足を踏み入れた。まるで海図のような地図を頼りに泥沼の中の足掛かりを踏みしめて、さらにはジャガーやチャコ狼などの難を避けながら、三人はずんずんと奥地に分け入った。夜は泥と泥の間にあるわずかな陸地に天幕を張り、きちんと休息もとりながら進んだ。そして二週間も過ぎた頃、ようやく細川が頷いた。「そうです。ボクが前に来たのはたしかにこの場所だと思います」そこは一面の泥沼であった。大きな茅やワラビが群生し、その合間を縫って無数のオニバスが水面に浮いているほかは、なんとも静寂で不思議な世界であった。「なるほど、ここにになら水に棲む人がいそうな気もしてくる」誰もが思わずそう感じてしまうような、その場所には、そんな説得力があった。「よし、今夜はここに天幕を張ろう。そして明日、エステロス・デ・パチニョを踏破しよう」と蘭次郎はそう宣言した。そしてその天幕の前に焚火を焚き、細川とロザリアに火酒のグラスを渡した。「乾杯」とグラスを鳴らす三人の上には満天の星が煌めいていた。不思議な巨大植物群とジャングルの上空に瞬く幾つもの星たち。我々は魔境庭園の奥深くに、とうとう来てしまったのだ。その圧倒的な景色の中、三人はしばらく黙ってグラスを傾けていた。そのうち細川が一方を指差して、「ワラビが五本、並んでいるでしょう? あのあたりに彼は、水に棲む人はいたのです」と言った。
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そうして少し酔いも回ったころ、「ねえ、お二人さん。明日はちょっとした冒険になると思うから。まあ、その前に少し謎解きをしてもらってもいいかい?」と蘭次郎は、細川とロザリアを見比べて言った。「オレは最初、細川君は詐欺師でいうところのオトリだと思ったんだ。前にも言っただろう? カモを引っかけるためのオトリ。それでオレはコイツはどんなペテンに引っかけようとしているのかと、少しワクワクしながら観察することにしたんだ。まあ、詐欺だと最初から分かって眺めるなら、詐欺だってちょっとした娯楽、マジックショーみたいなもんだからね。それで船の中、オレはキミがどんな罠を仕掛けてくるのかと楽しみにしていたのさ。そうしたら、カジノの賭場荒らしの一件が起った。オレはあの時も言った通り、ははあ、これがオレを引っかける罠だなと思い、キミをオトリ、あのスーツの男をインサイドマンだと見て行動した。しかし実際は違った。キミはスーツの男に本当に騙されてしまって、一文無しになってしまった。あのカジノの一件とキミは無関係なのかとその時は思った。しかし、ここにきて気づいたことがあるんだ。細川君はやっぱりオトリだったんだ。そしてそのインサイドマンは、あのスーツの男ではなくロザリア、キミだったんだね?」蘭次郎が口をつぐむと細川はサッとロザリアに目をやった。ロザリアはグラスの火酒をクイッと飲んでから、「ごめんなさい」と謝った。蘭次郎は大きく手を左右に振って、「いや、謝ることはないんだ。実際、金銭面の詐欺にあったわけでもない。むしろ、ここまでの旅費などもロザリアが支払ってくれたことだし」と言ってから、「でも、そろそろ種明かしをしてもらいたいね?」と顔を覗き込んだ。
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「オレが思うに、まず豪華客船が福引であたったこと、これも二人の仕業だね」蘭次郎は言った。「それから、カジノの一件、これも二人が仕組んだことだと思う。当たっているなら頷いてくれ」ロザリアはコクリと頷き、「あの時、細川さんが私を見て驚いたのも当初からの打ち合わせです」と言った。「じゃあ、あのシックボーのディーラーとスーツの男も二人の手駒だったのかい?」蘭次郎は細川に尋ねた。「いいえ。ボクはただテーブルに倒れてロザリアを見つめ、彼女を蘭次郎さんに強く印象付ける事だけが目的でした。スーツ男の詐欺に引っかかってしまったのは、まったくボクが欲を出したからそうなってしまったことで、面目次第もございません」と細川はうなだれた。蘭次郎は、「ああ、ゴメン。嫌なことを思い出させてしまったな」と謝ったあと、「しかし、キミがあの詐欺に引っかかったからこそ、ボクはキミを少し信用するようになって、それでとうとうここまで来たんだから、あの金もまんざら捨て金じゃないぞ」と笑った。そして、「ではまあ、ここまではいいとして、ここからは少しわからないんだが、実際のところ、キミの持つアレキサンドライトの原石、あれは実際に誰の持ち物なんだね?」と鋭い目で細川を見た。細川はハッとロザリアを見て、ロザリアも少し口をつぐんだ。蘭次郎は続けた。「いやね。この南米に来るまで少しはキミの言葉も信じたんだけれど、実際にここにきて分かったことがひとつある。それは二人ともこんな密林を探検するのはまったく初めてであるということだ。キミは知識だけで話をしていた。まあ、それでオレをまんまと騙して、ここまで連れてこさせたんだから、それはそれでたいしたものであると思うけれど」
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そこで蘭次郎は再び目を光らせて、「ただ、そうするとあのアレキサンドライトの原石はいったい誰からもらったんだい? 水棲人じゃないね?」と言った。細川はすっかり俯いてしまった。その両者の間にロザリアが割って入り、「すみません。彼には黙って欲しいと言いました」と謝った。「ほう?」と蘭次郎はロザリアを見た。ロザリアは続けた。「あのアレキサンドライトの原石は私の物です。私はあの原石を細川さんに預けて言いました。これで誰か有名な探検家を連れ出してくれないでしょうか、と。細川さんはいろいろ考えた末、世界でも有数の探検家である小栗さんに白羽の矢を立てました。そして今回の計画を練って、なんとかここまで連れてきていただいた次第なのです」「とすると、水棲人がいる可能性はひどく低くなったな」と蘭次郎は目をつむって言った。「アレキサンドライトの原石が狂言で、細川君は水棲人に会ったこともない。頼りになるのはジメネス教授とその探検隊の証言だけとなるわけだ。それも百年近く前の証言だ」細川はむくりと顔を起こした。「でも、この沼の底にはアレキサンドライトの原石がゴロゴロと転がっているんです。水に棲む人はいなくても、アレキサンドライトの原石はきっとこの下にあるんです」「水棲人がいないとなると、つまらないなあ」と蘭次郎は大あくびをし、「明日の冒険に目的がなくなっちまった。もう、やめたほうがいいな」と言った。「それでも連れて行ってください」とロザリアは言った。そして、「小栗さんはこの沼の底に入る方法を見つけたのでしょう? ここまで来て引き返すのも後生です。なんとか連れて行ってください。私はこの沼の底ですべての秘密を打ち明けます」と頼んだ。