『水二棲ム』 06 バックパッカー南米の旅
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ジメネス教授の探検隊が出発した一九三二年は日本でいえば昭和七年、今からもう百年近くも過去の話である。「キミはそんなに長い歳月の間、その沼底棲息人(インコラ・パルストリス)が生きていたというのかい?」と蘭次郎は不思議そうに尋ねた。細川は首を横に振り、「それがジメネス教授の見た水に棲む人と同じかどうかは分かりません。しかし、ボクは確かに彼と会ったのです。そして彼がこのアレキサンドライトの原石をよこしたのです」と答えた。それを聞いて女性は、「ああ」と小さく感嘆のため息を漏らした。そして、「ぜひとも私を、その場所に案内してください」と拝むようにして言った。蘭次郎はそこで急に思い出したようにその女性を見て、「そう言えばあなたは誰ですか。これまで名前も伺わず失礼しました」と尋ねた。彼女も、「ああ」と今さらのように気づき、「私はロザリア・ロンバルド。二十二歳の学生で専門は日本語です。学校がミラノにあるのでミラノのマンションに住んでいます。このたび夏休みの小旅行で東南アジアから日本を廻っているのです」と流暢な日本語で答えた。細川はロザリアを眺め、「ああ、ロザリア。綺麗な名前だ」とうっとりとして言った。蘭次郎はそんな細川の背中をポンと叩いて言った。「それで、キミはジメネス教授のような大探検家でもないのに、よくその秘境にたどり着き、沼底棲息人(インコラ・パルストリス)に会えたね」細川はハッと我に返り、「まあ、それがまったくの偶然で」と頭を掻いたあと、「蘭次郎さんには話したでしょう? ボクは世界中の動物を見に行くのが趣味だって。それで南米パラグアイではカピパラを見るためにティンフンケ国立公園に行ったんです」と意味ありげな顔をした。
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パラグアイは細川がバックパッカーになって、三つ目に訪れた国であった。まずはニューヨークからフォズ・ド・イグアス空港まで飛行機で飛んで入国し、ブラジルのイグアス国立公園でヤマアラシを見た。次いでブラジルでバスに乗りイグアス川の国境を越えてアルゼンチンに入国し、プエルト・イグナスでバスを降りて動物保護施設のギラ・オーガでアルマジロを見た。そして再びプエルト・イグナスからバスで国境を越えパラグアイに入国。シウダーデルエステでバスを乗りかえアスンシオンに到着。アスンシオンから目的地であるティンフンケ国立公園までは公共機関がいということで国道十二号線をひたすら歩き、時にはヒッチハイクをしながら目的地に近づいていった。そうしてもう公園も近くなったというタイミングで、その車に乗った。乗った途端、細川は後悔した。その車の運転手は目がとろんとして見るからに危ない雰囲気を醸し出していた。細川は車が発車するまえに降りようとした。途端、男がギアを入れた。助手席のドアも開けたまま男はアクセルを踏み込んで、ぐんぐんと車を加速させていった。アメリカのヒッチハイクは危ないと真っ青な顔で細川は思った。以前、誰かに聞いた話、アメリカの少女がヒッチハイクで知らない男の車に乗ったが、人気のない草原についた途端、男が襲ってきた。驚いて逃げたが、逆上した男は追いかけてきて少女の両腕を斧で切り落としてしまった。そんな事件があった。ブラジル、アルゼンチンと何の事件もおこらずのんびりとした旅だったので、心に隙があったのだ。やはり知らない人の車に乗せてもらうなんてあまり良くなかった。ああ、ボクもここまでかと細川が諦めかけた途端、車はドンと森の木にぶつかった。
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車はこれで大破したが、細川は奇跡的に傷ひとつなくポンと外に放り出された。見ると運転していた男も近くの茂みに倒れていて、この事故では車だけが壊れたようであった。そのうち男が、「ううん」と唸って起き上がり細川を見つけると、その巨体に似つかわしくないほどの素早さで両手を上げて襲ってきた。こんな奴に捕まっては大変である。細川は慌てて跳ね起きて密林の中に逃げ込んだ。そこが国立公園の中であったのかどうか、それはまったく分からないが、追いかけてくる男から細川はただ無我夢中で逃げた。森の奥へ、奥へ。それでも男はまだ追ってきた。細川は必死の形相で、普段なら絶対入らないような泥の川に跳び込んだ。そしてその中をズブズブと十日間も進んだ。するとなんと、彼は偶然にもその地に出てしまったのである。アルゼンチンの探検隊が一か月かかってやっとたどり着いたあの魔境、エステロス・デ・パチニョ。巨大な茅に巨大なワラビ、茫漠と広がる荒湿地。ここならなるほど、水に棲む人もいるかも知れない。不思議な景観に圧倒されて、細川はぼんやりとそんなことを思った。すると突然、ざぶんと近くで水が跳ね上がり、あの伝説の水棲人が泥の中から出てきた。葉っぱをつなぎ合わせたような奇妙な服を身につけて、顔も身体も泥まみれの、それは男であった。その彼が自分の近くにあったオニバスの葉に何かを乗せて細川のほうに流してきた。そして、この泥沼にもっとたくさんそれがある、というようなことを身振り手振りで示しながら水中に消えていった。細川はその葉を掻き寄せてなんとかそれを拾い上げた。そして古代の葉っぱにくるまれて藻の紐で結ばれた包みを開けると、中からアレキサンドライトの原石が出てきた。
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それからどうやって助かったのか、それは細川の意識が朦朧としてしまってわからないという。魔境へと進む道中、彼はそこいらに成っている奇妙な果実をかじりながら歩いたのであるから、その中に奇妙な成分を持った植物があってもおかしくないし、何せ十日間も泥の中を歩き続けたんだから、そういうこともあるかもしれない。彼はパラグアイオニバスの上に寝ころび、泥の沼に浮かびながら、ただもうボンヤリとしていたという。そして、「ジメネス教授が巨大ワラビの切株と見たのは、ワラビの切株ではなくて、水面に浮かぶこれ、パラグアイオニバスだったんだ」とそんなことを考えながらただ流されて行くうちに、小さな村に着いた。細川はそこで助け出され、一度旅を中断して、南米を発った、ということであった。細川の話を聞き終わるなり、ロザリアは、「ああ」と吐息をつき、「細川さん、小栗さん。私をその場所に連れて行ってください」と言った。細川は我が意を得たりという表情で、「わかりました」と言った。蘭次郎は苦い顔で、「なぜオレまで?」と尋ねた。ロザリアは不思議そうな顔をして蘭次郎を見つめ、「だって小栗さんは探検家なのでしょう?」と、冒険するのが当然じゃないのといった表情をした。蘭次郎は首を左右に振り、「ああ、仕方ない。細川君だけでは頼りないから、ついて行ってあげましょう」と言ったあと、「それに水棲人の正体を見極めるのも面白そうだ」と苦笑いをした。これで話は決まった。三人は日本につくなり、今度は飛行機でアルゼンチンへと飛んだ。その旅の途中、ロザリアはいくつもの手紙を書いて、神戸、大坂、パリ、ブエノスアイレス、フォルモサと新しい都市につくたびにそれらをポストに投函した。