『水二棲ム』 05 庭園魔境グランチャコ

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「南米の奥地にはいまだ人類未踏の地が四か所ほどあります。ひとつはアマゾンの奥地、ひとつはオリノコ川の上流、ひとつはパタゴニアの南方、そしてひとつは庭園魔境グランチャコ。南緯二十度から二十七度、アルゼンチン・パラグアイ・ボリビアの三国にかけて広がる一帯。密林と沼と平原とからなるその地域には奇獣や珍虫がわんさといる。原住民も探検隊もその奥まで踏み込んだことはない場所。この石はその奥地に大量にあるのです。ボクにお金を貸してくれるなら、その奇跡の場所に案内いたしましょう」バーの人々は一瞬まるで水を打ったようにしんと静まり返ったが、やがて細川を無視することに決めたようにザワザワと話し出した。細川は呆然と立ち尽くしてしまった。と、そこにひとりの女性、先日カジノで見かけ、細川が見とれて転んだ、あの綺麗な女性が近づいてきて、「それは、アレキサンドライトの原石ですね?」と尋ねた。細川は彼女の方を向き、ハッと驚き座り込んだ。女性は細川の側に座り、その原石をじっと見た。そして、「その場所を、もっと詳しく教えてください」と優しい口調で頼んだ。その女性の登場により細川はまるで借りてきた猫のように大人しくなり話し出した。「そのグランチャコにピルコマヨという気まぐれな川があって、それは日ごとに位置が変わるんですが、その付近には荒湿地、エステロス・デ・パチニョというものが広がっているんです」蘭次郎は顎に手を当てて言った。「そのピルコマヨという川のまわりの土はおそらく柔らかな沖積層なんだね。岩や石もなくて、あちこちにクネクネと蛇行していて。このため水の勢いもなくて。だからいつも気ままに川筋を変えているのだろう」

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「そうなんです。ピルコマヨはそういった川なのです」と細川は頷き、「そしてそのもっとも酷い場所がエステロス・デ・パチニョと呼ばれている荒湿地なんです」と言った。不意に蘭次郎がポンと手を打った。「ああ、思い出したぞ。エステロス・デ・パチニョ。幻の荒湿地。その占有権を得るために、一九三二年、アルゼンチンの探検隊がそれを踏破する旅団を出したと、何か古い記録で読んだことがある」細川は蘭次郎に向き直り、何度も大きく首を縦に振って、「そうです、そうなんです。アルゼンチンの探検隊はリオ・ミステリーゾ(暗秘河)とリオ・コンリーゾ(迷錯河)という二つの河を遡り、その上流にあるエステロス・デ・パチニョに踏み込んだのです」と叫ぶように言った。先ほどまで黙って聞いていた女性が口を開いた。「そこに、何か不思議な人々がいると、むかし誰かから聞いたことがあります」細川は女性の方を振り向き、「そうなんです。探検隊はそのエステロス・デ・パチニョの泥沼のような荒湿地で不思議な人種に会うのですよ。それが水に棲む人なんです」と興奮した口調で言った。蘭次郎は頷いた。水に棲む人、沼底棲息人(インコラ・パルストリス)。あのアルゼンチンの探検隊を率いたジメネス教授は水中に棲む人類の存在に驚嘆し、『沼底棲息人(インコラ・パルストリス)』と、そんな学名をつけて学会に発表した。しかし学会は教授を笑った。世界中の学者は教授をたしなめ、「水の中に棲む人種などいようはずがない。ワニかジュゴンか知らないが、教授はそういったものを人と見間違えたのであろう」笑った。それでも教授がその存在を強く主張すると、今度は教授は狂ったという噂が広まり、結局その発見は黙殺された。

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 ジメネス教授の探検隊が密林へと分け入ったのは一九三二年の夏。日本では五・一五事件が起こり、いよいよ軍の台頭が顕著になってきたというその年のことであったが、一隊が目的地であるエステロス・デ・パチニョの南端にたどり着いたのは出発してより約一年も経った一九三三年、ドイツでヒトラーが首相となったその年の夏の終わりであったという。教授の残した手記によると、多くの人に見送られ、足取り軽くブエノスアイレスを出発した旅団であったが、密林の奥地に進むに従って様々な害虫や爬虫類に悩まされるようになり足取りも重くなっていった。それでも何とか川を遡り、その川の水がドロドロの柔らかい粘土のように濁ってきたと思い始めて二日後、ようやく大きな沼地に出た、云々。その茫漠たる泥沼を見てジメネス教授は感動のあまり叫んだという。「庭園魔境グランチャコ。その奥にある最も謎深き泥の沼。嗚呼、エステロス・デ・パチニョ」それがどれほど不思議な景観であったかというと、まず腕ほどの太さもある茅があちこちと群生し、それよりさらに巨大なワラビがグルグルと渦を描いて伸びている。そしてその切株が、あちこちにいくつも浮かんでいる、その泥の隙間から時々ブクッと大きな泡が湧き上がってくるのは、落ちた植物が沼の底で腐敗して、発酵しているからであろう。教授はうっとりと、そのまさに異世界的な風景を見回し、「我、来たり」と叫んだ。その時である。教授の立つ陸地より百メートルほど離れた泥土より、不意に髪の長い女がほっそりとした裸身を現したのである。教授は、「あっ」と驚きの声を漏らした。女もハッと振り向いて、すうっと再び、泥の中へと消えていった。

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「あれは女だ。まぎれもなく人間の女だ」教授はいま見たものが夢か幻か、疑いながらもそうつぶやいた。そこに沼の周囲を調べていた二人の隊員がかけてきて叫んだ。「大変です教授。泥の中に人がいました」「我々が沼でエビを採取していると、その奥にぬっと人の顔が現れたのです」教授は二人を制して尋ねた。「その人は髪の長い女であったか?」隊員は首を横に振り、「いいえ。あれは男でした」「立派な髭を蓄えた、凛々しい男の顔でした」と答えた。教授は考え込んでしまった。この泥沼の中には人がいる。それも一人ではない。男もいれば女もいる。ひょっとすると子供もいるかも知れない。これはまるで我々の思考の範疇を越える出来事ではないか。泥沼の付近に張った天幕に入り、教授は長らく煩悶した。そしてこう結論を出した。「この世には泥水の中で呼吸のできる人間というのがいるのかも知れない。魚の仲間にはハイギョというものもいるではないか。あれは海から陸に上がるため魚が進化していくという、その過程のまま暮らしている生き物であるというが。そう確かにハイギョは魚である陸の上でも生きていける。そうだ。人間の中にもひょっとすると、陸の暮らしが嫌になり、水中に入った者がいるかも知れない。そしてそこでエラを発達させたとしても、ちっとも変でないではないか」「これは世紀の大発見だ」教授は目を輝かせ、もう探検もそこそこにブエノスアイレスへと飛んで帰り、ただちに論文を書き上げ、そしてこの沼底棲息人(インコラ・パルストリス)の存在を全世界に発表した。結果は先にも述べた通り世界中の学者からの嘲笑に終わったが、「実はボクも、その水に棲む人に出会ったのですよ」と細川が言った。