『水二棲ム』 04 ルーレットのペテン師

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 翌日、細川は蘭次郎の部屋をノックして朝食に誘った。蘭次郎は寝ぼけ眼で顔を出し、「昨夜あれだけ怒ったのに、キミはまるで懲りない奴だね」とあきれたように細川を見た。それからガシガシと頭を掻いて、「まあ、ここは船の上であるし周りは海であるし。すべて水に流してやろうかな」と、苦笑いをした。細川はまるで子犬のように大喜びして蘭次郎の周りにまとわりついた。そして船内レストランのビュッフェボードに盛られた料理を二人分皿にとりわけて、蘭次郎の座る窓際の席に持ってきた。細川は蘭次郎の向かいに座りしばらくとりとめのない話をした。そして蘭次郎の気持ちが和らいだところを見計らい、「やはりボクはやってみようと思うんだ」と唐突に宣言した。蘭次郎はトマトジュースを飲みながら、細川が何の話をしているのか、すぐにはわからずボンヤリとしたが、やがてそれが昨夜の続きであると思い至り、「やめとけ、やめとけ。危ない話だ」とグラスを置いて不機嫌そうに言った。細川は口を尖らせたけれど、これ以上、蘭次郎を口説こうとはしなかった。二人の間に何だか気まずい空気が流れ、そのまま黙ってもの別れとなった。それでも蘭次郎は少し気になり、デッキを散歩するついでにカジノを覗いてみた。果たしてルーレットのテーブルに細川は座っていた。「ああ、やっているな」と蘭次郎はそれを見たあと、昨日のスーツの男を探した。男はバカラの観客に混ざってそのゲームを見るふりをしていた。蘭次郎がしばらく遠くで見ていると男は不意にチラリとルーレットのディーラーを見た。すると美人のディーラーはパチパチと二回瞬きをした。細川はそれを見て、それまで賭けてなかったチップをいきなりすべてベッドした。

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「あの瞬きが合図だな?」と蘭次郎は見たが、とにかく知らん顔をして観客に混ざってルーレットの盤を見た。細川は黒の十三にすべてのチップを賭けていた。一点張り、本当にそれ一発で当たるとしたら、これは本当に八百長だ。ルーレットのディーラーの中には狙った目に必ず玉を入れる名人もいると聞くが、彼女がそれなのか? それとも玉に何か細工がしてあるのだろうか? そんなことを考えたあと、「おや?」と蘭次郎は首をひねった。盤上のチップのプレーヤーのほとんどがストレートアップ、つまり細川と同じくひとつの数字の一点張りに賭けていた。それらの数字はバラバラであったけれど、プレーヤーたちの顔つきは誰も細川と同じように勝利を確信しているように見えた。「何だ、この異様な雰囲気は? 皆なにか催眠術にでもかかったのであろうか?」蘭次郎は不思議に思い、もう一度そのルーレットのレイアウトに目をやった。ストレートアップに賭けたプレーヤーの誰もが多額のチップ、十万円相当のチップを置いていた。細川はそれよりさらに多く五十万円ほども置いていた。「ああ、こいつはいけないぞ」と蘭次郎は直感した。急いで中に飛びこんで、チップを引き上げさせようとした。がその時、「ノーモアベッド」とディーラーの冷たい声が響いた。そしてボールは転がり、あっけなく赤の一にコロンと入った。「やった。当たったわ」と、赤の一に賭けていた女性が小躍りして喜んだ。蘭次郎は目を大きく見開いたまま細川の顔を覗き込んだ。細川はただ呆然と、かき集められるチップを眺めていた。蘭次郎は細川にかける言葉もなく、肩をポンポンと叩いた。その時チラリと、スーツの男が出目の女の横にすり寄って何か話しているのが見えた。

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 ペテンというのはオトリという役割の人がカモを見つけるところから始まる。そしてカモに目星をつけるとオトリはそのカモからの信用を得るため努力する。やがてカモからの信用を得るとオトリはカモをインサイドマンと引き合わせる。インサイドマンはオトリとカモの両方に不正に大金を儲ける方法を教える。オトリとカモが試してみると上手くいく。大喜びのオトリとカモをインサイドマンはさらなる大勝負に誘惑する。カモがそれに大金を出したところで、オトリとインサイドマンはそれをだまし取る。カモが怒り出したところで警察が乱入、三人は散り散りに逃げる。不正に儲けようとしていたため、カモはそのまま泣き寝入り。「とまあ、これが一般的な詐欺の手口で、オレは始めあのスーツの男がインサイドマンでキミがオトリの役、そしてオレをカモに見立てて詐欺を働こうとしているのかと思ったよ。しかしそうではなかったんだね」バーのカウンターに細川を座らせて蘭次郎はポンポンと肩を叩いた。そしてウイスキーを飲みながら、「君自身がカモだったとは。あのスーツの男はなんとも大胆なイカサマをしたもんだ」と言った。細川もガックリ項垂れて、「畜生、だまされた」とつぶやいた。蘭次郎は構わず続けた。「ペテンというのは普通二人一組で行うのがセオリーなんだけれど、アイツの場合はもっと単純で、多くの人に自分を信用させて別々のマスにそれぞれ大金を賭けさせた。そしてたまたま誰かがその目を出したなら、彼はちゃっかりその半額をもらい、出なかった人の前からは姿を消す。まったく単純な詐欺だよ」と言った。「ボクは怒って彼の部屋に行ったけれど、部屋はもぬけの殻だったよ」細川は唸るように言った。

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「ああ、ボクは全財産を賭けてしまった」細川はカウンターに突っ伏して泣きだした。蘭次郎はその横でロックグラスを揺らしながら、「なくなったお金のことは忘れて、ほら、ウィスキーでも飲もう。今日はオレがおごるよ」と慰めた。細川はがばとカウンターから身を起こし、そのグラスを一気に飲み干したあと、「しかしやはり悔しい。ボクはあの金を取り戻したい」と言い、「ねえ蘭次郎さん。お金を貸してくれませんか?」と振り向いた。細川の目はすっかり座って、とても正気に見えなかった。「やめておけ。また巻き上げられるだけだ」と蘭次郎は細川をなだめた。そして、「それに今回のイカサマ、ひょっとするとあのスーツの男がオトリでインサイドマンはもっと奥に隠れている可能性もある」と言った。言ってから蘭次郎は自分の言葉にハッとした。そして実際そうかも知れないと改めて思った。シックボーのディーラーとスーツの男。その二人は昨日明らかなイカサマをしたのに、捕まらずに平然としている。それにスーツの男の部屋がもぬけの殻であったということ。それは、そういった部屋がまだいくつか用意されている可能性があるということ。これはもっと奥の深いペテンが準備されている可能性もある。そんなことを考えていると、横に座っていた細川が急に立ち上がり、「誰かボクにお金を貸してください」と逆上したように怒鳴った。バーにいた人たちはしんとなって細川を見た。そのうち何人かがクスクスと笑い、「担保はなんだ?」とからかって言った。嘲笑されていることに気づき、細川はますますのぼせ上った。いきなり肩下げカバンに手を入れて巾着を取り上げてテーブルに置いた。そして中の原石を持ち上げて叫んだ。