『水二棲ム』 03 賭場荒らしとシックボー
03-01
スーツの男が後ろに立って睨む中、蘭次郎は大か小か、あるいは偶数か奇数かという、当たる確率も高いけれど配当の最も少ないマスにチップを置いた。そして勝ったり負けたりと一進一退を繰り返していた。「そんな勝負じゃいつまでたっても埒があかねえぜ?」とスーツの男は野次を入れが、蘭次郎はそれでも相変わらずのらりくらりと勝負していた。「バカ野郎。もっとしっかり賭けなきゃ意味がないぜ」スーツの男は何度も蘭次郎をののしったが蘭次郎はまったく動じず、黙々と儲けの薄い賭けばかり続けていた。そんな中、ディーラーが少し髪を掻き上げた。何だか不自然な動きだな? と蘭次郎は首を傾げた。途端、スーツの男が俄かに蘭次郎の横に立って、蘭次郎が偶数目にベットしていたチップをつかんだ。そしてそれを例の二のトリプルのマスにすべて置いた。蘭次郎は驚き、「何をする」とスーツの男を突き飛ばし、チップを戻そうとした。その時ディーラーが「ノーモアベット」と声をかけた。ベットエリアのチップはこれで凍結されてしまった。「何たることだ」と蘭次郎はうめいた。置いたチップは一万円分。「ああ。これで一万円がパーになったか」蘭次郎はそう思ってガクリとうなだれた。ディーラーは知らん顔でサイコロをみっつコロコロンと振った。サイコロはテーブルの上を転がって、やがて二二二と二が三つ並んで止まった。ディーラーは真っ青になって肩を落とし、観客は、「おおっ」と、どよめいた。百五十一万円分のチップが蘭次郎の前に置かれ、「奇跡だ。奇跡だぜ」とスーツの男は細川の背中をバンバンと叩いて大はしゃぎした。それから肘で細川をつつき、「もういい。換金しろ」と低い声で命じた。
03-02
「七百万には足りないけれど」と細川は恐る恐るスーツの男を振り返って言った。スーツの男はそっぽを向きながら、「百五十万で許してやるから、すぐによこせ」と細川に耳打ちした。スーツの男にそう言われて、細川は少しホッとした。蘭次郎の博打の腕前からして、この先どう考えても七百万は無理そうである。今しがた出た二のトリプルも奇跡としか言いようがない。蘭次郎はまだゲームを続けていたが、細川はそのすぐ側にかがんで、「あの男、もう許してくれるそうなんで、チップを紙幣に変えましょう」と言った。蘭次郎は、「そうなのか?」と変な顔で細川を見て、それからスーツの男を見た。スーツの男はその目を避けるようにしながら再び細川の横に来て、「その百五十万、あとでオレの部屋に届けてくれ」と部屋番号を伝えると、何だかそそくさと出て行った。蘭次郎は首を傾げながらシックボーの席を立ち、両替所で紙幣を受け取った。そしてそのうちの百五十万を細川に渡した。細川は、「すみません」と何度も頭を下げながらそれを受け取り、「あのスーツの人の部屋、一人で行くのは心細いので一緒に行ってくれませんか?」と誘った。蘭次郎は首を横に振り、「いや、勘弁してくれ。アイツはなんだか虫が好かない。オレはバーにでも入ってビールを飲んでいるよ」と言った。それから両替所で返って来た紙幣を数えた。当初十万円であった掛け金は十一万二千円と、一万二千円分増えていた。「あんなトロトロしたプレーでも少しは儲かるものなのだなあ」と蘭次郎は不思議に思いながら派手なネオンのカジノを出て、そのごく近くにあるバーに入った。そして、「今日のオレはなんだか飲んでばかりだな」と少し自責の念に囚われつつも、またビールを注文した。
03-03
バーでビールを飲んだあと今度はスコッチのロックをちびりちびりと飲み始めた。その蘭次郎のもとに細川が興奮した面持ちで戻って来た。「ずいぶん遅かったじゃないか?」と蘭次郎が不思議そうに聞くと、細川はその横の席に腰かけて、「ちょっとした儲け話を聞いて来たんだ」と答えた。そしてソルティドッグを頼んだあと、「あの人、すごい人だったよ」と鼻の穴を膨らませ、「賭場荒らしだったんだよ」と、ひそひそ声で耳打ちした。「ああ、なるほど」と蘭次郎は納得したように頷き、「あの美人のディーラーもグルだな?」とニヤリと笑った。「そうさ、よくわかったね」と細川は不思議そうに言った。蘭次郎は細川を見返して、「二のぞろ目、それを出すのが彼女の得意技なんだろ? あのスーツの男、キミがテーブルに倒れてゲームをおじゃんにしたときも、オレを勝たせた時も、二のトリプルに張っていたじゃないか。彼が賭場荒らしと聞いて納得してしまったよ」と笑った。細川は言った。「それでね、あの人、賭場荒らしだけれどあまり目を付けられたくないから、代わりにボクたちに稼いでほしいと言うんだ」スコッチのグラスを揺らしながら、「代わりって?」と蘭次郎は聞いた。細川はソルティドッグを脇に置いて、「あの人、ここの美人ディーラーの何人かと密かに関係を持っていて、それでそれぞれの得意技を知っているんだ。だから、自分の代打としてボクたちに明日はルーレット、明後日はバカラと、毎日ゲームを変えながら、それぞれで大きな儲けを出して欲しいって。協力するなら必ず勝てる方法を教えるから、分け前を半分くれ、だって」と言った。蘭次郎は細川の目を少し見たあと手を振って、「ダメダメ。オレの柄じゃない」と席を立った。
03-04
蘭次郎が船室に戻り、シャワーを浴びてもう寝ようとしていると、その船室のドアを誰かがドンドンと叩いた。「誰だ五月蠅いやつだなあ」と、蘭次郎が顔を覗かすと半べそをかいた細川がいた。「なんだいキミは。今日はもう寝て、あとは明日のことにしないか?」蘭次郎は不機嫌そうに細川を追い払おうとした。しかし細川はやたらペコペコと蘭次郎に頭を下げて、「今日は蘭次郎さんに百五十万円も払ってもらった。どうしてもそれを返したいから、あの賭場荒らしの話に乗って協力してくれないか」と言うのであった。蘭次郎はすっかり呆れてしまって、「なんだい? キミはオレと友人になってアレキサンドライトの原石がゴロゴロと転がる場所に行くのが目的だったんじゃないのかい?」と尋ねた。「それはそうだけれど」と細川は少し口ごもり、「でも、さっき蘭次郎さんにお金を払ってもらったことが、どうしても気になるんだ」と縋りついた。「いいから気にするな。どうせカジノで、それもイカサマで儲けた金じゃないか。気にすることはない」と蘭次郎は細川をなだめ部屋の戸を閉めようとした。しかし細川は戸の隙間に足先を入れて、「ねえ、蘭次郎さん。聞くだけでも聞いてくださいよ」としつこく頼んだ。蘭次郎はカッときた。戸をバンと強く開けて廊下に出、細川の尻をボンッと蹴飛ばして怒鳴った。「オレがいいと言っているのに、なんて五月蠅い奴なんだ。明日のカジノはもちろんのことアレキサンドライトも知ったこっちゃない。キミはオレの友人じゃない。二度とオレの前に現れるな」そして呆然となった細川を廊下に残して、蘭次郎は外に飛び出し夜のデッキチェアに座った。船を取り巻く空一面に無数の星が瞬いていた。