『水二棲ム』 02 アレキサンドライトの原石

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 「中を覗いてください」と細川は巾着の口をゆっくり開いて声をかけた。蘭次郎は、「うむ」と返事をし、言われるままにそれを覗いた。巾着の内側には布に遮られた仄暗い光が差し込んでいた。そしてその弱い光を受けてピカピカと赤紫色の石が綺麗に乱反射していた。「へえ、万華鏡みたいだねえ」と蘭次郎は感嘆の声をあげ、巾着から顔をあげた。細川はさも嬉しそうに笑って、「まだまだ。驚くのはここからですよ」と、その石を巾着からゆっくり取り出して見せた。するとその石は煌めく太陽の光を浴びて、今度は深海のような蒼く透き通った輝きを見せた。「ああ。色が変わるのか?」と蘭次郎は目を見張った。そして、「これはアレキサンドライトの原石なんだな?」と尋ねた。日中と夜とで色の変わる不思議な宝石、アレキサンドライト。細川は蘭次郎の見立てに満足したように頷いて、「そうです。アレキサンドライトの原石なんです」と答えながら石を巾着に戻した。「握りこぶしほどの大きさがあったな?」と蘭次郎がつぶやいた。細川は巾着をバックの奥底にしまいながら、「透明度も最高級です。これほどの上物であれば時価一千万円はくだらないという代物です」と言った。蘭次郎は、「なるほど、たいしたもんだ」と頷いて、「いざとなったらそれを売ればお金になるな?」と笑いかけた。細川は首を横に振り、「いいえ。ただこれだけではないんです。ボクはこんなアレキサンドライトの原石がゴロゴロと転がっている場所を知っているんですよ」とニマリと笑ったあと、「そうです。一千万円なんてせこい額じゃない。いざとなればボクは何億、いや何兆円もの現金を一気に手に入れられると思っているんですよ」と目を輝かせた。

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 蘭次郎は目を丸くして、「なるほど。キミはたしかに大金持ちのようだ」と言いながらビールを傾けた。すると細川も次のビールを手に取ってから、「そこで相談なんですがね? ボクと一緒にその場所に行ってくれないでしょうか?」と尋ねた。蘭次郎は不思議そうに細川を見て、「その、宝石の原石がゴロゴロと転がっている場所に、オレを連れて行ってくれるのかい?」と首を傾げた。細川は頷いて、「そうです。ボクは蘭次郎さんが気に入ってしまったんです。蘭次郎さんならその場所に連れて行ってもいいと思ったんです」と答えた。不意に蘭次郎はニヤリと笑った。そして、「それだけじゃあるまい?」と問いかけた。細川が、「えっ」と驚いた表情をすると、「これでだいたいの見当はついた。お前さんの言うその場所ってのは、たぶんかなりの難所なんだろう? ちょっとした人外魔境といったような?」と蘭次郎が顎をしゃくった。「なんでそれが?」と細川は思わず言ってしまったあと、「すみません」とうなだれた。蘭次郎は手を左右に大きく振って、「いや。謝ることじゃない。キミはバックパッカーで各地を旅したと言っていたじゃないか。そのどこかでオレの噂でも聞いたんだろう?」と言ったあと、「オレに用がある奴はだいたい決まっているのさ。とても自分だけでは行けそうもない場所に連れて行って欲しい、そんな感じだってね」と笑った。そして少し首を傾げてから、「ひょっとして、福引で豪華客船が当たったのもキミの仕業かい?」と尋ねた。細川はますますうつむいて、「できるだけ自然な感じで会って、まず友人になりたかったんです。友人以外の仕事はあまり受けないと聞いていたので」と消え入りそうな声で言った。

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 蘭次郎はそんな細川の様子をしばらく見ていたが、やがて、「それよりこの船、何か娯楽もあるんだろう? 面白そうなところに案内しておくれよ」と言った。細川は不思議そうに顔を上げ、「あの、先ほどのアレキサンドライトの件は?」と尋ねた。蘭次郎は大仰に欠伸をして、「そんなのあとあと。ビジネスよりも遊びが優先だ。せっかくキミがこうして豪華客船に招待してくれたんだから、オレも目いっぱい楽しませてもらわなきゃ。オレたち友人になれるかどうか。な? ここが正念場だぜ。仕事のことはそれからの話だ」と笑った。細川は仕方なさそうに立ち上がり、「ではカジノに案内しましょう」と言ったあと、「この船はマレーシア国籍ですからね。ちゃんとカジノもあるんですよ」と派手なネオンに囲まれたゲートの中に蘭次郎を伴って入った。カジノの中は結構な人だかりで、人気はルーレットやバカラのようであった。美人ディーラーと数人のプレーヤーが勝負に熱中している様子を多くの野次馬が眺めていた。蘭次郎はその雰囲気を楽しみながら細川の後ろをついて歩いた。すると突然、「おや?」と言って細川が立ち止まった。その細川の背中に蘭次郎はドンとぶつかってしまった。「あっ」と言ったがもう遅い。細川は足をヨロヨロともつれさせ、サイコロゲームの盤上にバタッと倒れ込んでしまった。「何だよ、よそ見なんてしてさ」と蘭次郎は少し怒った声で言った。そうして細川に目をやると、倒れたままの細川の視線が、ある一点を凝視しているのに気が付いた。蘭次郎は、「おや」と思ってその方向に目をむけた。何かがあるに違いない。そう思って観察すると、その視線の先に一人の女性がはんなりと立っているのが見えた。

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 黒いドレスを優雅に着込んだ白百合のような上品さ。うりざね顔の綺麗な女性。「ははあ。女に見とれたか?」と蘭次郎は、まだテーブルの上にぼんやり転んだままでいる細川を見た。すると不意に、「おどれ、なんてことをしてくれたんじゃ」と雷鳴のような怒声がカジノ中に轟いた。蘭次郎は目を向けた。細川もハッと我に返り、その怒声の主を見上げた。そこにはいかにもガラの悪そうなスーツ姿の男がいた。そして、「いま転がったダイスは二の目が出ていてオレの大勝ちだった。ところが、おどれがテーブルに転がったせいで五の目に変わってしまった」と怒鳴った。細川はヨロヨロと立ち上がり、テーブルの上に目をやった。そこにはシックボーのレイアウトがあり、その男は二のトリプルの一点張りに賭けていた。これは三つのサイコロすべてに「二の目が出る」と賭ける方法で、もしそれが出た場合、百五十一倍もの配当が期待されていた。男はそこに日本円にしておよそ五万円ほどのチップをドンと置いていた。もし細川が転がらなければ七百五十五万円の配当になっていたという計算になる。「オドレ、何の恨みがあって」とスーツの男は細川をねじ上げた。細川は真っ青になり、「ごめんなさい」と何度も謝った。蘭次郎はしばらくそれを見ていたが、やがて仕方ないという風に首を左右に振って、「賭けで出たはずの儲けなら、やはり賭けで返すのが順当でしょう」とシックボーの席に座りポケットから財布を出してシャッフルパッドに紙幣を並べた。ディーラーはそれを受け取り、十万円分のチップをシャッフルパッドの上に返した。蘭次郎はそれを受け取り、「さあ、あんたも大人しく座って。ゲームを楽しみましょうや」とスーツの男に呼びかけた。スーツの男はムスッとこちらを見て細川から手を放した。しかし席には座らずに、蘭次郎の後ろに立った。かくしてゲームは始まった。