『水二棲ム』 01 豪華客船の探検家
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その夏、小栗蘭次郎は豪華客船に乗っていた。ラオスとタイの国境付近にある人類未踏の地、伽羅絶境(ヤト・ジャン)を踏破したのち、クアラルンプールに立ち寄って、そこの商店街でたまたま引いた福引券が当たったのである。彼はその券をしげしげと眺め、「探検家であるオレに豪華客船はなんとも似合わないな」と考えたが、せっかく当たったことであるし、「まあ、何事も後学のため」と思い直し、マレーシア国籍のその船に乗った。船に乗ると綺麗なキャビンアテンダントが券と引き換えに船室の鍵と案内のパンフレットを手渡してくれた。パンフレットの表にはアジア遊覧四日間の旅といったツアー名が書かれ、裏の地図には航路が描かれていた。それによると、クアラルンプールのポートケランを出航した船はマラッカ、シンガポール、ホーチミン、マニラ、台中、那覇と停泊し、最終的には神戸港に到着するということであった。「日本が終着点であるというのが、なかなか気が利いていていいじゃないか。久々の帰国に豪華客船を利用するっていうのも新しい冒険かもしれないな」何だかそれも気に入った。そういうわけで蘭次郎はいそいそと船に乗り込み、指定された船室に向かった。豪華客船の船室は高級ホテルのシングルルームのような雰囲気であった。しかし室内に窓がなく海は見られなかった。「まあ福引で当てた部屋だからこんなものかも知れないな」と蘭次郎は荷物を置きながら苦笑して、そのまま部屋を出てデッキへと向かった。そのうち船は出航したが揺れはまるでなく、これもまるで高級ホテルの廊下を歩くような感覚であった。「先日まで這いずり回っていた白骸溪(ヤトバイハイ)とはまさに天地の差だな」と蘭次郎は感嘆をもらした。
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「マレーシアには旅行で来たのか?」と蘭次郎は尋ねて空になったビールの瓶を逆さにして振った。「まあ、そんなところです」と細川は少し言葉を濁したのち、近くにいたキャビンアテンダントを呼び止めて新たにビールを二本頼んでから、「いえ。本当はこっちで仕事をしていたんです」と答えた。蘭次郎は新たに来たビールを受け取ってゴクリと飲んだ。細川は構わず、「そこでちょっとしくじっちゃって。それで日本に逃げ帰っているんです」と話を続けた。蘭次郎は小首を傾げて、「逃げ帰っているにしては、豪華客船なんて。ちょっと贅沢すぎやしないか?」と茶々を入れた。細川は照れ笑いをして、「それが、どうしたわけか商店街の福引で、これが当たってしまって」と言った。蘭次郎は一瞬キョトンとしたけれど、すぐに弾けるように笑った。「なんだ。キミもそうなのか? マレーシアの福引は本当に出血大サービスだな?」細川も福引で船に乗ったとわかり、蘭次郎はなんだか急に親近感がわいた。それは細川も同じだったようで、「蘭次郎さん、蘭次郎さん」となつきだし、そこからは聞きもしないのに様々なことを一人で話し出した。それによると彼は大の動物好きで、子供の頃は動物園の飼育員になることが夢であったという。そのうち世界中の動物を見たいと思うようになり、高校二年でいよいよ我慢ができなくなり、そのままま卒業も待てないで世界に飛び出して行ったという。大きなバックをひとつ背負って彼がまず最初に行ったのは南米。ブラジルでヤマアラシ、アルゼンチンでアルマジロ、パラグアイでカピバラなどを見学したあと、今度は東南アジアに飛んで、ミャンマーでバク、ベトナムでサオラ、マレーシアでトラなどを見た。
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「そこで少し資金が乏しくなったんです」と細川はビールを一口飲んだ。「お金が無くなっては旅は続けられません。と、いうことでボクはマレーシアの動物愛護の団体でバイトを始めんです。犬や猫の命を守るとか、そういった感じのところだったんです。ところが中に入ってみると、これがまあ非道いところで」と続けた。そしてしばらく口をつぐんでいたかと思うと突然目を怒らせて、「いったい犬や猫の去勢をする権利がどうして人間にあるのです? 生きる価値がないと判断して殺処分する権利が、どうして人間にあるんです? それが秩序を守るためというけれど、いったいそれは誰のための秩序です? 人間様はそれほど偉いものなのですか? ボクにはまるでわからない」と叫びだした。蘭次郎は慌てて細川の肩を叩き、「まあまあ」となだめた。細川はすぐにハッと我に返り、再びもとの口調に戻って、「まあ、理事長にそんな話をしたら、あっという間にクビになってしまいました」と言った。血統書付き。お金になる種族だけを残し、雑種は血を残さないように徐々にこの世から抹殺する。優生学思想の動物への適用。ペットでお金儲けをする人ために作られた新たな秩序と、その秩序を妄信して声高に正義を語る愚者。世界は相変わらず物言わぬモノに理不尽である。蘭次郎はそう考えたけれど、「まあ、仕方ない。キミの気持ちもわからなくはないよ」と軽く流してから、「しかし、ここまでよくお金が続いたねえ」と話題を変えた。細川はすぐにその話題に乗って来て、「ボクはバックパッカーですから、そんなにお金のかからない旅をしていたんです」と言ったあと、「まあ、これもありますから」と、そのバックから巾着をひとつ取り出した。