悪霊荘奇譚 01-03

 阿具良韋荘の崩壊は、しかし案外早くにきた。大正三年(一九一四年)というから、本館が完成してよりわずか五年の後、光瑞法王はこの別荘を手放さざるを得なくなったのである。探検と収集品の研究、およびこの未来都市の構築に莫大な資金を投じた光瑞法王は、その返済が苦しくなり、教団の資金を流用してしまった。それがこの二月に発覚したのである。門徒よりごうごうの非難を受けた光瑞法王は日本の本土に居づらくなり法王の職を辞任したのち大連へと逃れた。そのおり多くの収集品と共に阿具良韋荘も売却したのである。しかしそれだけではまだ光瑞法王の借金返済に足らなかったようで、寺は光瑞法王の個人資産、先祖代々受け継がれてきた尾形光琳の屏風『燕子花図』や牧谿の『半身達磨図』などをオークションに出している。ちなみにこの尾形光琳の屏風は根津嘉一郎が買い取り、牧谿の『半身達磨図』は山中商会の山中吉郎兵衛が買い取ったということが、『書画骨董雑誌』や『骨董太平記』といった大正期の雑誌や書籍に記録されている。光琳の屏風『燕子花図』は現在も根津美術館(港区南青山)が所蔵している。牧谿の『半身達磨図』は山中商会から川崎男爵家に渡り、再び山中商会が買い戻した、といった逸話が残っている。ともかく光瑞法王は家宝も収集品も売り飛ばし借金返済にあてねばならなかった。そんな光瑞法王を憐れんだ鉱山王の久原房之助が、最後にこの阿具良韋荘を買い取ったのである。しかし赤沢銅山の買収や日立製作所の設立などで多忙を極めた久原は、この別荘で呑気に楽しんでいるほどの余裕がなかったようで、何度か義兄の鮎川儀介(のちの日産コンツェルン会長)などを招待したのち、入口を鎖で封鎖して、そのまま放置してしまった。