悪霊荘奇譚 01-01

 日露戦争はどうにか終結したけれど今度はドイツやオーストリアなどの欧州諸国が騒がしくなり、いよいよ第一次世界大戦が勃発するかもしれないと世間が騒ぎだした、そんなきな臭い時代のこと。一向宗総本山に君臨する光瑞法王は学術調査の探検隊を東西のトルキスタンに派遣して、敦煌のミイラ、楼蘭の李伯文書、スバシ故城の舎利容器など仏教ゆかりの宝物を探しだして、日本に持ち帰ってきた。そしてそれらを保管、閲覧、または研究するための施設として、神戸六甲の広大な敷地にひとつの別荘を建てることを計画した。そしてその設計にあたって東京帝国大学教授の伊藤忠太博士とその盟友の鵜飼長三郎氏という当世一流の建築家を招集し、己の理想を熱く語った。「拙僧は世界に類を見ない万国博覧会のような空間で多くの英才を育てたい」「たとえ私財をなげうってでも、この事業は成功させたい」云々。両名はこの光瑞法王の熱意に打たれ、その願望をすべて盛り込む形で、やがて不思議な別荘をひとつ作り上げた。それが阿具良韋(あぐらゐ)荘であった。「本邦初、唯一無二の珍建築物」明治四十二年(一九〇九年)九月、その本館が完成した際、大阪毎日新聞はそんな見出しでその奇観を大きく写真で取り上げた。そして、「それはインドのアクバル大帝時代の建築物か、あるいはムガル帝国の王妃ムムターズ・マハルの墓地タージマハルを彷彿させるような荘厳さ」とか、「なんと建物の基礎部分は神戸沖で沈没した英商船の廃船部材を転用して作ったらしい」等々、様々な逸話を報じたため、その奇観を見るべく多くの人が神戸に押し寄せた。光瑞法王は満足げに頷いて、こうした野次馬をまるで嫌がる風もなく建物の中に招き入れ、時間があれば解説もした。