02-05 長崎新左衛門尉意見の事 付けたり阿新殿の事 04
「後醍醐帝に謀反を勧めた張本人は源中納言具行・右少弁日野俊基・日野中納言資朝である。それぞれ死罪にするべし」と評定は一致した。「では最初に、佐渡に流されている資朝を斬ることにしよう」と幕府は佐渡の守護、本間山城入道に命令を下した。噂はたちまち京にも聞こえた。資朝の子息、阿新殿は十三歳で、その頃は父の罪に連座することを恐れて仁和寺のあたりに隠れていたが、その噂を聞いて言った。「父が殺されるというのに、自分だけ生きながらえるわけにはいきません。私も父と共に斬られて冥途のお供をしたいです。父の最後も見届けたいです」阿新の言葉を聞いて母は驚いて止めた。「佐渡というところは人も通わない恐ろしい島だと聞くよ。旅に日数もかかるし、お前のような幼い者がどうして行くことができましょう? それに父に続いてお前までいなくなっては、母はどうして生きていけばいいのです?」泣く母を前に阿新は言った。「お母様がお止めなされては、私の供をする者もいないでしょう。それならいっそ川の深みにでも飛び込んで死んでしまいたいです」母は嘆きなんとか止めようと試みたが阿新は言うことをきかない。本当に川に飛び込まれでもしたら、それこそ犬死である。母は仕方がないと諦めて、これまで一緒に逃げて来た、たった一人の中間を阿新に付けて、一緒に佐渡に下らせた。道は遠いが乗る馬もない。なれない草鞋を足にはき、菅の小笠を深く傾け、露をかき分けて越路へと旅にでる阿新の背中を見やり、母はたいそう哀れに思った。