02-05 長崎新左衛門尉意見の事 付けたり阿新殿の事 01

 後醍醐天皇の謀反むほん露見ろけんしたので、「後醍醐帝は流罪るざいとされ、天皇のくらい持明院じみょういん殿に移るであろう」と京では青女房あおにょうぼうに至るまで多くの人が喜んだ。ところが土岐ときが討たれた後も、俊基としもとが鎌倉に送られた後も、幕府からの沙汰さたはまるでなかった。持明院統の人々は何か肩透かたすかしを食ったような心持こころもちで毎日を過ごした。
 しかし嘆息たんそくしてばかりもいられないので、そのうち持明院統の中から使者が鎌倉に送られた。使者は相模さがみ入道北条高時の前に出て、「天皇の御謀反はいよいよ盛んになっています。幕府が即急そっきゅう対処たいしょしなければ、天下は大乱となるでしょう」そう進言しんげんした。相模入道は驚いた。一門の主だった者たちをはじめ、引付衆ひきつけしゅう頭人とうにん評定衆ひょうじょうしゅうなどを集めて意見を求めた。集まった面々は困惑しお互いの顔を見合わすばかりで口をつぐんでいた。そこに執事しつじ長崎入道の子息、新左衛門尉しんざえもんのじょう高資たかすけが進み出て言った。
土岐とき十郎を討ち取った時、本来なら天皇にも退位していただくべきであったのに、朝廷の権威をはばかって生ぬるい処置しかしなかったので、後醍醐帝はまだおろかな考えに固執こしつしています。乱を収めて天下を平和に維持することが武家の徳というものです。後醍醐帝と護良親王をすぐさま遠国に流したてまつり、俊基としもと資朝すけともなどの逆臣どもを処刑するほかに、他の方法はありますまい」
 高資がそういうと出羽入道二階堂にかいどう道蘊どううんが考えながら言った。