02-04 俊基朝臣再び関東下向の事
土岐十郎の一件の際、その申し開きが認められ一度は無罪放免となった日野俊基朝臣であったが、文観僧正と忠円僧正の白状で再び謀反の首謀者として名が挙がった。再犯を許さないのが幕府の方針であったので、今度の鎌倉行きが俊基の最後であるのは火を見るよりも明らかであった。元徳三年七月十一日、再び六波羅に捕らえられた俊基は関東へと送られて行った。
雪と見間違うほどに舞い降る桜吹雪の片野の春、紅葉の錦を着て帰った嵐山の秋の夕暮れ、そんな情景の中で一夜を明かすこととなっても、旅の空の下というものは憂きものである。恩愛に包まれた故郷の妻子を置いて行くのは心残りであるし、永年住み慣れた九重の都を見修めとするのも物悲しい。「憂きをば留めぬ逢坂の、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打出の浜、沖を遥かに見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋うち渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかと哀れなり。時雨もいたく森山の、木の下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分くる道を過ぎ行けば、鏡の山は有りとても、涙に曇りて見え分かず。物を思へば夜の間にも、老蘇の森の草下に、駒を止めて顧みる、故郷の雲は隔つらん。番場・醒井・柏原、不破の関屋は荒れ果てて、なほもる物は秋の雨の、いつかわが身の尾張なる、熱田の八剣伏し拝み、塩干に今や鳴海潟、傾く月に道見えて、明けぬ暮れぬと行く道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕塩に、引く人も無き捨て小船、沈み果てぬる身にしあれば、たれか哀れと夕暮の、入り逢ひ鳴れば今はとて、池田の宿に着きたまふ」
池田と言えば元暦の頃、平清盛が子息の重盛中将が壇ノ浦で敗れて囚われて、関東に送られる途中にこの宿に泊まった。囚われ人の重盛を見た長者の娘が、「東路の丹生の小屋のいぶせきに、故郷いかに恋しかるらん」と歌を詠んだと言うが、そんな昔の出来事までもが俊基には哀れに思い出された。やがて旅館の灯もかすかとなり、鶏が暁を告げるころ、一頭の馬が風の中でいなないた。天龍川を渡り小夜の山道を越えて見れば、白雲は路にたちこめた。そしてまた何処ともわからぬ路傍で夕暮れを迎え、故郷の空はどこであろうかと振り返ってももうわかるはずもない。その昔、「命なりけり」とこの中山を二度越えた西行法師は歌を詠んだが、二度も越えられるとは羨ましいと俊基はしみじみ思った。時の過ぎゆくのは早く、また次の昼食時が来て、輿が宿の庭先に入れられた。俊基は轅を叩いて警護の武士を呼び、「ここはどこですか」と聞いた。武士は、「菊川です」と答えた。さすればここが、かの承久の乱の折、光親卿が関東下向の途中で誅せられた場所ではないか。
昔南陽県菊水・汲下流而延齢・今東海道菊川・宿西岸而終命
「昔、南陽県の菊水を汲んで人は長寿を全うしたが、今、東海道の菊川西岸の宿で私の命は終わるのだ」
光親卿は死に臨んでこんな漢詩を柱に刻んだという。そして、「いにしへもかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん」と歌を詠んだという。俊基にはその境遇もまるで我が事のように思えた。
大井川を過ぎれば大堰川を思い出し、かつて後醍醐天皇の亀山殿行幸に付き従って、あれは嵐山の花盛り、その川に龍頭鷁首の舟を浮かべて詩歌管弦の宴を楽しんだけれど、もうそれも夢の彼方であろうと俊基は涙した。島田、藤枝にさしかかれば岡の葛の葉が枯れるのが物悲しい夕暮れとなり、宇都の山辺を越えて行けば蔦が生い茂って道も見えないほどであった。その昔、在原業平の中将が東下りをした時に、「夢にも人に逢はぬなりけり」と歌を詠んだというが、まさにそのような寂しさであった。清見潟を過ぎれば、夢さえ都に返さぬとばかりに波が眠りを妨げる関守となり、向かひはいづこ三穂が崎、奥津・神原うち過ぎて、富士の高峰を見たまへば、雪の中より立つ煙、上なき思ひに比べつつ、明くる霞に松見えて、浮島が原を過ぎ行けば、塩干や浅き船浮きて、おり立つ田子のみづからも、浮世をめぐる車返し、竹の下道行きなやむ、足柄山の巓より、大磯小磯を見おろして、袖にも波はこゆるぎの、急ぐとしもはなけれども、日数つもれば、七月二十六日の暮れ程に、鎌倉にこそ着きたまひけれ。
鎌倉に着いた俊基は、南条左衛門高直が引き取って、そのまま諏訪左衛門に預けられた。そして蜘蛛手のように木を打ち付けた一室に押し込められることになったが、その有様はまるで地獄の罪人が十王の前に引き出されて、手枷や首枷をつけたまま罪をただされる姿のようであった。