02-02 僧徒六波羅へ召し捕る事 付けたり為明詠歌の事

 かくし事はれやすく、わざわいのもととなる。護良もりよし親王の武装と後醍醐天皇の討幕呪詛じゅその儀式のことは、すぐに幕府に知られることとなった。執権の相模入道は怒った。「後醍醐天皇が天皇である限り天下はしずまるまい。これは承久じょうきゅうの乱の先例どおり天皇を遠国おんごく流罪るざいにし、護良親王には死罪しざいを申し伝えるべきだ。それに先立って、まず天皇近くで幕府調伏ちょうぶくの祈りをしたという法勝寺の円観えんかん上人と小野の文観もんかん僧正そうじょう、南都の知教と教円、浄土寺の忠円ちゅうえん僧正をらえて子細しさいを尋ねるのだ」こうして二階堂下野判官しもつけののはんがんと長井遠江守とおとうみのかみ幕命ばくめいを受けて上洛じょうらくした。「またしても幕府の使者が来てしまった。奴らめ今度は何をする気だ?」と後醍醐天皇は御所ごしょの奥深くに隠れて見ていると、元徳三年五月十一日の早朝、雑賀さいか隼人佐はやとのすけが法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、浄土寺の忠円僧正の三人を捕え六波羅に連れて行った。
 忠円僧正は顕宗けんしゅうの優秀な僧であるので、密教の調伏には入っていなかったが、比叡山の供養の際、後醍醐天皇に寄り添って万事ばんじ指図さしずをしていたのであやしまれ、捕えられた。南都の知教と教円も奈良より召し出されて六波羅に入った。

 また二条にじょう中将ちゅうじょう為明ためあきらも六波羅に召し出だされた。為明は歌道の達者たっしゃで、月の夜や雪の朝、歌合せのうたげの時はいつも後醍醐天皇に呼ばれて出席していたので、参考のために出頭を求められ、六波羅では斉藤左衛門尉基世もとよの屋敷に預けられた。謀反の調伏ちょうぶくをした僧たちは、明らかに裁かれるべき者たちであったので、鎌倉に送られてからその罪を問われることになっていたが、為明の罪はまだはっきりしないので、まず六波羅で尋問し、「罪が明らかになってから鎌倉に送るように」という沙汰さたがあった。この命を受けて、検断けんだん糟谷かすや刑部ぎょうぶ左衛門尉が為明の拷問ごうもんに当たった。六波羅の北の探題の中庭に炭がおこされ、大きななべに湯が沸かされ、湯起請くがたちの準備がなされた。また、真っ赤にいこった炭の上に割った青竹が敷き並べられた。これは、青竹の隙間から激しく噴き上げる猛火の橋を、朝夕ちょうゆう雑色ぞうしき(雑務をこなす役人)が左右から罪人の手をつかんで歩かせるという拷問の支度したくであった。まるで四重しじゅう五逆ごぎゃくの罪人が焦熱しょうねつ地獄の炎に焼かれ牛頭ごず馬頭めずめさいなまれるに似ていると誰もが意気いき消沈しょうちんするような光景が着々と準備されていった。為明はそれを見て、「すずりはあるか?」と言った。さてはこの恐ろしい拷問を前に為明めは自白じはくをするか、と役人たちは硯と紙を用意した。為明はそれを受け取ると一首の歌をサラサラと書いた。
 思ひきやわが敷島しきしまの道ならで浮世うきよの事を問はるべしとは
(短歌の道を生きてきた私が短歌の事でなく俗世のことを問われるとは不思議なものであるね)

 北の探題たんだい常葉ときは駿河守するがのかみ範貞のりさだは為明の歌を見て、これはにかなっていると思った。関東から送られた使者たちもこの歌人の心を知って哀れに思った。「為明卿は無罪であろう。火や水で責めることはあるまい」六波羅ではそう裁断さいだんを下し、為明は晴れて無罪むざい放免ほうめんとなった。詩や歌は朝廷の風流で、武家は弓馬きゅうばをたしなむものであるけれど、物事はお互いに感じ取るものであるので、この和歌に武人たちも心たれたのである。この歌一首で拷問を取りめた武人たちの心根こころねの優しさもさることながら、力を入れず天地を動かし、鬼神きじんにすら哀れを感じさせ、また男女の仲をやわらげて、たけ武士もののふの心もなぐさめるのが歌なのである。きの貫之つらゆき古今こきんじょに書いた歌の魅力は、なるほど本当なのであろう。