02-01 南都北嶺行幸の事
日野資朝が流罪に処されたかの事件、正中の変より六年の歳月が流れた。幕府の目を気にしてその間を静かに過ごした後醍醐天皇が、ここにきて再び活動を始めた。元徳二年二月四日、帝は宮内の諸行事を取り仕切る万里小路中納言藤房を呼び、「来月の八日、東大寺と興福寺に行幸する。すぐに供の者に準備させよ」と命じた。藤房はすぐに古い慣例を調べ、供の行装や行列の順序を決めた。佐々木備中守時信が道中の橋を渡し、四十八箇所の篝が京の辻々で警護についた。三公九卿すなわち太政大臣・左大臣・右大臣をはじめとする多くの公卿たちが後醍醐天皇の近くに従い、百司千官が列をなした。それは言葉で言い表せられないほどの厳儀であった。
東大寺という寺は、聖武天皇の勅願で建てられた寺院で、この国最大の毘盧遮那仏があることで知られていた。興福寺という寺は、淡海公(藤原不比等)の発願で建てられた寺院で、藤原氏が代々尊崇した大伽藍であった。これまでの天皇も、これら南都(奈良)の寺院に参って仏縁を結びたい気持ちはあったけれど、天皇の参拝は大ごとであるので長らく行なわれなかった。後醍醐天皇はこの絶え廃れていく行事をその御代で再び行ったのである。天皇の鳳輦を仰ぎ見て衆徒たちは手を合わせて歓喜した。天皇が来たことで仏の威光はますます増した。春日山を吹く風までが万歳万歳と音を立て、北の藤は千年の栄華を誇るのであった。
南都の行幸を終えた後醍醐天皇は三月二十七日、今度は北嶺(比叡山延暦寺)へと向かった。そしてかつて淳和天皇の勅願で開かれた大講堂で大日如来を本尊にして回向の儀を行った。この建物は建造されてよりずいぶん年が経っていたので瓦は落ち、そこから忍び込む霧が堂内にたちこめ、壊れた扉の隙間から射し込む月明かりが常夜灯のような有様であった。後醍醐天皇は回向のため、これをすぐに修築し供養の儀式をおこなった。叡山中の僧たちは喜び、感謝した。この度の回向で御導師を務めたのは天皇の第二皇子・妙法院の尊澄法親王であった。呪願は天皇の第三皇子で天台宗座主となった大塔宮護良親王が務めた。「称揚讃仏のみぎりには、鷲峰の花薫を譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐響きを添ふ」法会の盛り上がりは釈迦が霊鷲山で説法した時よりも華やかで、魚山から梵天の声も聞こえてくるほどであった。「伶倫遏雲の曲を奏し、舞童回雪の袖を翻せば、百獣も率し舞ひ、鳳鳥も来儀するばかりなり」楽人たちが楽器を奏でて舞妓たちが粉雪のように舞えば、動物たちも共に舞い、鳳凰も天から礼拝に来るほどであった。
この回向に来た住吉神社の神主、津守国夏は宿坊の柱に一首の歌を刻んだ。
「契りあればこの山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植ゑけん」
これは伝教大師最澄が開山の時、「我が立つ杣に冥加あらせたまへ」と三藐三菩提の仏たちに祈ったという故事を念頭において詠んだ歌であった。
後醍醐天皇の行幸は仏道の再興を目指したものであると人々は喜んだが、その実、これは幕府を倒す仲間を増やすための根回しであった。「鎌倉の執権、相模入道はの不義輩だ。朕を蔑ろにして威張っている。その悪行も目を覆わんばかりだ」回向の後、帝は護良親王に言った。護良親王は帝の嘆きを我が事としてとらえた。「御父上、わかりました。こんな時代に呑気に仏道修行などしておれません。天台宗の僧たちに武芸の稽古を命じましょう」護良親王は天台宗座主、すなわち天台宗の僧の中で最も位の高い人物であったので、その日から多くの僧が長刀や槍を振り回すようになった。護良親王も皆と共に武芸に励んだが、もともと好きであったので、腕はめきめき上達し、やがて唐の江都王のような軽捷さで七尺の屏風も楽々と飛び越えるほどになった。また兵法は、劉邦の軍師であった張良子房の書物で学び、秘蔵書とされているものまですっかり頭に刻み付けた。天台宗が興って百余年、このような不思議な座主はこれまでになかったと、誰もが目を瞬かせた。これもすべて幕府討伐の為であったかと、人々は後に知る事となる。