01-08 資朝・俊基関東下向の事 付けたり御告文の事

 土岐と多治見が討たれて、後醍醐帝の謀反があかるみとなったので、鎌倉から長崎ながさき四郎左衛門泰光やすみつ南条なんじょう次郎左衛門宗直むねなおの二人が使者として上洛じょうらくした。「土岐が討たれたさいりとなった者はいなかった。取り調べる相手もいないであろうに?」と謀反の側はこの上洛を甘く見て万が一のそなえもしていなかった。ところが幕府の使者は思いのほか強気に乗り出してきたかと思うと、五月十日、日野資朝すけともと日野俊基としもとの両人を有無うむも言わさずにし取った。両人はかくれるすきもなく捕えられ、妻子さいし東西とうざいに逃げまどい、家財かざいは路上に引き散らかされた。そして馬蹄ばていこわされた。
 捕えられた資朝卿、職は検非違使けびいし別当べっとうで官は中納言、後醍醐帝のお気に入りで、まさに時流にのっていた。また俊基朝臣あそん儒雅じゅがの家柄の出であったけれど、これも後醍醐帝の抜擢ばってき大出世だいしゅっせをしていたので、同僚はすり寄り、目上めうえの者もへりくだるほどの勢いであった。この両人が捕まると、「不義で富み貴くなっても浮雲うきぐものようにはかないものだな」と陰で笑う者もいた。これは論語の中、孔子が、「粗食を食べて腕枕で寝ることこそ楽しい。不義で富み貴くなるのは浮雲のようなものだ」と言ったという所から引用された言葉であるが、不義とまでだんじられては資朝も俊基も少し可哀そうな気もする。ともあれ、両人の栄華は夢のように終わり、代わりに悲しみが押し寄せた。これを聞く人たちの中には、盛者必衰じょうしゃひっすいことわりを知らなくても、涙にそでらす者もあったという。

 その二十七日、関東からの使者は捕縛ほばくした資朝と俊基を連れて鎌倉へ帰った。この両人は謀反計画の張本人であるから処罰はまぬがないと思われたが、後醍醐帝の側近そっきん才覚さいかく優長ゆうちょうと評判の高い者たちなので、幕府も世間からの非難や、後醍醐帝の怒りを恐れて拷問ごうもんはしなかった。軽い罪人と同じように侍所さむらいどころの監視下に置くだけにとどめた。
 七月七日。牽牛けんぎゅう織女おりひめかささぎの橋を渡り一年の寂しさを慰め合う七夕の夜。願いの糸を竹簡ちくかんけて庭先には果物をそなえて、その日を祝うのがかねてからの朝廷の習俗ならわしであったが、その年は世上せじょうが騒がしく落ち着かない時節じせつとなってしまったので、詩歌しかを詠む詩人もなく、管弦かんげん調しらべをそうする伶人れいじんもなかった。宮中に宿直とのいする月卿げっきょう雲客うんきゃくたちも、「何が起こるか分からない世の中と。厄災やくさいがいつ何時なんどき自分の身の上に降りかかるかも知れない」ときもを冷やしていたので、誰もが暗い顔で眉をひそめ、空も見上げずうつむいていた。夜が更けた頃、後醍醐帝が、「誰かいるか?」と声をかけた。「吉田中納言冬房ふゆふさそうろう」と冬房が御前ごぜんに出た。後醍醐帝は冬房に近づいて言った。「資朝と俊基をとらえても、鎌倉はまだ騒がしい。さらに朝廷をおびやかしそうである。我が心は穏やかではない。どうすればあの東の蛮族ばんぞくどもはしずまるか?」冬房は答えた。「資朝と俊基は口を割らないでしょうから、幕府もこれ以上の追求は難しいでしょう。しかし、この両人が捕えられた時のことを考えますれば、あまりにらちが明かないとなると、武人どもは強気に出る事も考えられます。ここはひとつ告文こうぶんを一枚、鎌倉に送って相模さがみ入道にゅうどうの怒りを鎮めるのが良いでしょう」

 冬房の進言しんげんを受けた後醍醐帝は、「されば冬房、直ちに書け」と命じた。冬房はすぐに草案そうあんを書き上げ帝に見せた。帝はそれを読んではらはらと涙をこぼした。集まった重臣たちも心を痛めた。相模さがみ入道に告文こうぶんを送るなど、何という恥辱ちじょくであろうか。しかしこの告文を送らなければ関東が納得なっとくしないのも仕方ないと思えた。
 関東への勅使ちょくしには万里小路までのこうぢ大納言宣房のぶふさが選ばれ、宣房は告文をたずさえて鎌倉へ下った。相模入道・北条ほうじょう高時たかとき秋田あいた城介じょうのすけ安達あだち時顕ときあきにそれを受け取らせ、その場で開封かいふうしようとした。二階堂にかいどう道蘊どううんがそれを止めて言った。「天皇が武臣に対して直接に告文を送る事など前代ぜんだい未聞みもんのことです。軽々しく披見ひけんなどしては、冥見みょうけんにつけて恐れあり、神のたたりがふりかかるかも知れません。その文箱ふんばこは開けずにお返しするのがよろしいでしょう」相模入道は道蘊を五月蠅うるさく思った。「なんのさわりがあるものか。さあ、開けるのだ」そう言って、今度は斉藤太郎左衛門利行としゆきに渡して読むように命じた。斉藤利行はかしこまってそれを読んだが、「帝の心に偽りのないことは天が知っている」という一文に差し掛かった時、にわか眩暈めまいを覚えた。さらに利行は鼻血を出して、読み終わらないまま退出することになった。そしてその日からのどの下に悪瘡あくそうができ、七日後、血を吐いて死んだ。「世相せそうは乱れ人の道は泥沼どろぬまに落ちたようなこの頃であっても、君臣くんしん上下の礼をたがえると神仏のばつは当たるものだ」と、人々は恐れおののき、ささやいた。

「資朝と俊基の陰謀は明白であるし、その大元おおもとは後醍醐帝であることも知れている。たとえ告文こうぶんなど送って来られても信用することはできない。後醍醐帝を遠国おんごくに流さねばならない」鎌倉の評定衆ひょうじょうしゅうは一度はそう決めていた。しかし勅使ちょくし宣房のぶふさは食い下がった。「そもそも後醍醐帝が謀反むほんなど考えられるはずがございません。あれは土岐や多治見といった武家たちが勝手にしたことでございます。罪があるとすれば、彼らと遊興ゆうきょうを共にした資朝卿でありましょうが、それとてたいした罪ではございますまい」相模入道は眉をしかめた。宣房はさらに続けた。「今回の事はここらでおさめておかれるほうが、御身おんみのためでもありましょう。あまりにしつこくなされると神罰しんばつが下りますぞ?」利行の死が伝えられたのは、その評定の最中さなかであった。これで諸人もろびとは舌を巻き、もう誰も厳しい処罰を言わなくなった。「わかりました。朝廷の事は朝廷に任せることにいたしましょう」幕府は結局けっきょく最後にそう返事をして、告文を宣房に返した。宣房が帰京してそれを告げ、後醍醐帝はようやく胸をなでおろした。群臣たちも顔色を取り戻した。
 そのうち俊基は証拠不十分で釈放しゃくほうされ、資朝は死罪を免ぜられ佐渡に流される事となった。