01-07 頼員回忠の事
こうして増えていった謀反人の中に、土岐左近蔵人頼員という者がいた。六波羅の奉行、斉藤太郎左衛門尉利行の娘を妻として深く愛していた。もし謀反が現実となり朝廷方と鎌倉方の間に合戦が起こったら、自分は討ち死にしてしまうかもしれないと考え、何も起こる前から切なく思った。そしてある夜、とうとう我慢できなくなって寝物語に妻に言った。「一樹の陰に宿り、同じ流れを汲むも、皆これ多生の縁あさからず」同じ大樹の影で雨宿りするのも、同じ川の水を汲むのも、かねてから縁があってのことと言うではないか。「況やあひ馴れたてまつて既に三年に余れり」まして我々は結婚までして、もう三年を越すほどになった。「等閑ならぬ志の程をば、気色につけ、折に触れても思ひ知りたまふらん」私が本当にお前を愛していることは、よくよく知っているであろう? 「さても定めなきは人間の習ひ、あひ逢ふ中の契りなれば、今もし我が身はかなく成りぬと聞きたまふ事有らば、無からん跡までも貞女の心を失はで、我が後世を問ひたまへ」人間は必ずいつか死ぬ。もし私が死んだなら他の男になど靡かないで、一生私を弔ってもらいたいのだ。「人間に帰らば、再び夫婦の契りを結び、浄土に生れば、同じ蓮の台に半座を分けて待つべし」もう一度人間に生まれたら、また結婚しようと思うし、もし極楽浄土に行ったなら、蓮の台を半分開けて待っているよ。頼員は妻にそう何度も言って涙を流した。
頼員の言葉を聞き、妻は不審に思った。「この方は何をおっしゃっているのかしら? 男女の仲なんて、明日にはもうどうなるものか、わかったものじゃない世の中に、来世の約束までしよう
なんて?」そしてこう考えた。「さては、そんな適当な事を言って、夫は私を捨てて逃げる気ですわね?」妻は怒って泣きだした。「あなた、あなた。なんて憎らしいあなたでしょう。私を置いてどこへ行く気なの?」妻は泣いて恨み言をくどくどと言った。これには頼員も弱ってしまった。そしてとうとう本当の事を言ってしまった。「お前を捨てようなど思ってもいない。ただ思いがけず勅命を受けてしまい、お断りすることもできなく、結局謀反に加担することになってしまったのだ。謀反などおこせば千に一つも生きて帰られないと思うと悲しくて悲しくて。お前と別れ別れになることが本当に悲しくて。それでついあんな事を言ってしまった。これは誰にも言ってはならないぞ」
妻は賢い女であった。その夜は大人しく寝たが、翌朝早く目を覚ますと夫の言葉をじっくり吟味した。「後醍醐帝の謀反が失敗すれば、夫はたちまち誅せられる。後醍醐帝の謀反が成功すれば、逆にわが父を始め、斉藤一門が滅亡する。夫も父も助けるには、ああ、そうだわ。まずこの謀反計画を父利行に話すことで夫を回忠の者とすればいいのだわ。内通者ということなら、幕府も夫を罪人としない。これで夫も父もすっかり助かるわ」妻は早速、父斉藤利行のもとに行き謀反計画を知らせた。
娘の知らせを受けて斉藤利行は驚いた。急ぎ婿の頼員を呼び出して、「今の世に謀反など不思議な考えを持つ者がいると聞いた。まるで石を抱いて淵に飛び込むような愚行であろうとワシは思う。もし、他人の口から漏れたなら、お前たち夫婦だけでなく、我ら斉藤一門も皆処刑されるであろう。ワシはすぐに六波羅
殿の前に出て、お前からこんな知らせがあった、と告げようと思う。これでそなたらも我らも安泰だ。どう思う?」と尋ねた。頼員は大事をうっかり妻に話したことを心の内で悔やんだが、もうどうなるものでもない。「この度の事は、多治見四郎次郎が私を誘って、それで同意いたしました。お義父上の良いようにお計らいください。そして我々をお助け下さい」そう斉藤利行にお願いした。
斉藤からの知らせを受けて六波羅殿は驚いた。すぐさま早馬を立てて鎌倉に知らせをやったのち、洛中洛外の武士たちを六波羅に召し集めた。「河内国葛葉に謀反人が出た。地下人や代官に叛いて合戦が起こりそうである。京都にいる武士たちはすぐに集まるように」命令が出て、四十八箇所の篝や在京人とよばれる護衛の武士たちは、続々と六波羅にやってきた。そして着到という書類に名を記し、六波羅殿の下知を待った。しかしこれは本当の謀反人を逃がさないための罠であった。土岐と多治見もやって来て、まさか自分たちが狙われているとはつゆ知らず、それぞれの宿泊所に入った。
明けて元享四年九月十九日の卯刻(午前六時ごろ)。小串三郎左衛門尉範行と山本九郎時綱は、六波羅殿より三鱗の御紋の入った旗を手渡され、討手の大将に任じられた。両名は三千余騎を引き連れて六条河原に打って出て、そこで二手に別れた。小串三郎は多治見の宿所、錦小路高倉へと向かい、山本時綱は土岐十郎の宿所、三条堀川へと向かった。
三条河原に着いたとき、時綱は思った。「この大軍で押し寄せ
れば土岐十郎に気付かれて、かえって逃がす事になるかも知れない。兵はこのまま三条河原に留め置いて、単身で乗り込み討ち取ってやるのが良いであろう」そう決めた時綱は、長刀を持った中間二人のみ連れて、単身騎馬でひそかに土岐の宿所に向かった。そして門前に馬を乗り捨て小門より内に入ると、中門で警護をしている宿直の武士たちは鎧兜も太刀も刀も放り出して高いびきをかいて寝ていた。時綱は厩の後ろに回り、どこか秘密の抜け道などないかと探したが、門のほかはすべて築地で簡単に逃れられる場所などなかった。「これはいい塩梅だ」と時綱は屋敷に踏み込んだ。そして客殿の奥の二間をさっと引き開ければ、そこに土岐十郎がいた。土岐は起きたばかりと見えて鬢の髪をなであげてゆっていたが、時綱を見てすべてを悟った。「心得たり」と言うが早いか立てた太刀を手に取って、そばの障子を踏み破り、六間の客殿に躍り出て、天井に打ち付けぬようにと横払いに太刀を振るった。土岐十郎の太刀を避け、時綱は広庭に飛び降りた。隙があれば生け捕りにしようと考えながら、敵の攻撃を受けて交わして、じりじりと下がった。二人は余人を交えず一騎打ちで戦ったが、そうするうち、六条河原に控えていた二千余騎の軍勢が土岐の宿所に押し寄せて、どっと鬨の声を上げた。土岐十郎は敵の目論見を悟った。「奴は俺を生け捕りにする気だ」生け捕られては武門の恥辱、土岐十郎は踵を返して屋敷に駆け込み、もとの寝所に戻り来ると、そこで腹を十字に切った。踏み込む六波羅の軍勢に若侍たちも抵抗したが、何しろ敵は多勢に無勢。逃れる者は一人もなく、皆討死した。時綱は死んだ土岐十郎の首を
取り、太刀の切っ先に貫いて、六波羅へと帰って行った。
多治見の宿所には六波羅勢一千余騎を引き連れた小串三郎左衛門尉範行が押し寄せた。多治見は終夜酒を飲んで酔いつぶれ、前後も知らず臥していたが、鬨の声に目を覚まし、「何事だ」と起き上がった。横で寝ていた遊君は物馴れた女性で、慌てる多治見に鎧を着せ、上帯を強く締めさせた。そして寝ている若党たちを起こした。起こされた若党の中、小笠原孫六は驚いて、とにかく太刀のみを手に取って中門に走り出た。そして目を凝らして見ると、三鱗と源氏車の旗が築地の上に見えた。孫六は奥に入って怒鳴った。「六波羅より討手が向かってきたようだ。この度の謀反計画は露見したと思われる。各々方、ここは太刀の目貫が堪えられるだけは戦い抜いて、それでも負ければ腹を切ろう」そう言って素早く腹巻を身につけ、二十四本差しの胡簶と繁籐の弓を引っ提げて門の上にある櫓に上った。
櫓の上の孫六は、狭間の板を八文字に開いて、そこから中差をつがえた矢の先を覗かせ、「あら事々しの大勢や。我等が手柄の程こそ顕れたれ。そもそも討手の大将は誰と申す人の向はれて候ふやらん。近付いて矢一つ受けて御覧候へ」そう言うなり十二束三伏の矢をぎりぎりといっぱいまで引き絞って、さっと放った。矢は最前線にいた狩野下野前司の若党、衣摺助房の兜に真っ向からつき刺さり、鉢付の板まで射通した。助房を馬から射落とした孫六は、後はもう相手を選ばず、鎧の袖、草摺、兜の鉢と、矢継ぎ早に射つづけた。運悪く面前にいた敵二十四人が瞬間に矢の餌食となった。しかし矢には限りがある。孫六が次の矢
を射ようと胡簶を探ると、矢は残り一本となっていた。孫六はここで覚悟を決めた。「この矢一つをば冥途の旅の用心に持つべし」とその矢を自分の腰に差し、胡簶を櫓の下に投げ落とした。それから太刀を取り出して、「日本一の剛の者、謀反に与し自害する有様、見置いて人に語れ」と大声で敵に呼びかけると、太刀をくわえてそのまま真っ逆さまに飛び落りた。こうして孫六は敵勢の真ん中で太刀に貫かれて死んだ。
孫六が時間を稼いでいる間に多治見の一族郎党二十余人は敵に備える準備をした。物具をしっかり身につけて、大庭に飛び降り、門の閂をがっちりとかけた。
決死の覚悟の多治見を見て、六波羅軍は躊躇した。下手に踏み込めばどんな目にあうか知れたものではない。そう思い遠巻きに見ていたが、伊藤彦次郎父子四人が門の扉が少し壊れているのを見つけ、その隙間から中に這って入った。しかしそれは敵の望むところで、伊藤親子はまさに敵の待ち受ける所にのこのこと入る形になってしまった。勇気のある行為であったが、突入はまったく意味もなく、伊藤親子はたちまち膾切りにされた。伊藤の悲惨な死様を見て寄手はいよいよ尻込みをした。多治見勢はそれを見て逆に門を開いて嘲った。「討手を承るほどの人たちのくせに見苦しいぞ。さっさと討ち入ってきてみろ。我等が首を引出物にしてやろうじゃないか」敵の意気地のなさを嘲笑し辱めた。馬鹿にされた六波羅軍はさすがに腹を立てた。先陣の五百余人が馬から降りて歩立ちとなり、ワアとわめいて討ち入った。多治見勢
はどうせもう生きては出られぬ身と腹をくくった者たちであったので、一歩も引かずに逆に攻め込む敵勢の中に乱れ入り、目蔵滅法に斬りまわった。寄手の五百人は散々に斬り立てられて門から引いた。しかし寄手は多勢である。次は第二陣がわめいて内に駆け入った。そうして入っては追い出され、入っては追い出されと繰り返し、辰刻から午刻まで火が出るほどに戦った。寄手の佐々木判官は、正面を守る兵は強固であると判断し、配下の者を千余騎引き連れ、後方の錦小路にある民家を打ち破って突入した。これには多治見勢も驚いた。もはやここまでと観念し、二十二人は中門に集まり互いに太刀を刺し違え、算を散らせるように死んでいった。大手の寄手も門を破り宿所の内に乱れ込んだ。そして多治見の首級をあげて、六波羅へと帰って行った。この二時の合戦で、手負と死者は合わせて二百七十三人であった。