01-06 無礼講の事 付けたり 玄恵文談の事
美濃の住人に、土岐伯耆十郎頼貞と多治見四郎次郎国長という者がいた。どちらも清和源氏の後胤で、武勇に優れているとの噂であった。日野資朝はこの両人と、かつて人の縁を通じて知り合い、以降、朋友の交わりも長くなっていた。資朝は考えた。「この二人は有力な味方となる可能性がある。しかし討幕の計画を打ち明けるには、もう少し二人の人物を見極めてからが良いであろう」そしてこの二人の心を推し量るため、無礼講をすることにした。無礼講とはいろいろ五月蠅い礼儀を無視して、気楽に行われる酒宴のことで、その夜は、尹大納言師賢・四条中納言隆輔・洞院左衛門督実世・蔵人右小弁日野俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁方眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長らで行われたが、その交会遊宴の様子は聞く人を驚かした。献杯は身分に関係なく順不同に行われ、男たちは烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は黒衣を脱いで下着のみでくつろいだ。酒のお酌は、透けた絹の単衣だけを身につけた十七・八の見目麗しい乙女たちが二十人ほどで行ったけれど、何せ着物が透けているので、雪のような肌がひらひらと見えて、それはまるで太液の芙蓉が今、水中から咲き出だしたというような美しさであった。盆には山海の珍味が並べられ、盃には美酒が泉のように湛えられ、そこに男女入り乱れ、皆で戯れ、舞って歌った。日野資朝はそのような酒宴をたびたび行い、その無礼講に土岐頼貞や多治見国長を招いて、二人の様子を観察しながら関東討伐の計画を徐々に聞かせることにした。
無礼講といっても何の目的もなく、そうそう度々集まったのでは人が怪しむので、資朝たちは文学の講義を受けるという建前上の名目を打ち出すことにした。そのため才覚無双と評判の天台宗の学僧、玄恵法印が招かれ昌黎文集という書物の講座が開かれることとなった。玄恵法印はまさか裏で謀反の企みがあるとも知らずに、会合ごとに出向いて奥の深い講義をし、ものの道理を皆に諭した。しかし文集の中、「昌黎潮州に赴く」という長篇のくだりにきた時、俄かに、「この書物は不吉な書物だ。もっと我々の役に立つ書物、たとえば呉子や孫子、六韜や三略などの講義をするべきだ」と皆が言い出した。これで昌黎文集の講座は終わることとなった。
この書物を書いた韓昌黎という人は、中唐の末に出た人物で、文才優長の人であった。詩は杜甫や李白に並ぶとされ、文章は漢・魏・晋・宋の、どの時代のものと比較しても引けを取らないと言われた。その昌黎の甥に韓湘という者がいた。韓湘は文学をたしなまず、詩篇にも携わらず、ただ神秘的な術ばかり学び、それで十分であると嘯いていた。
ある日、そんな韓湘に昌黎が言った。「お前はせっかくこの世に生まれてきたのに、仁義から外れた道ばかりを逍遥している。これは君子として恥ずかしい事、徳のない小人が行うことだぞ。お前の事を思うと私は本当に悲しいぞ」昌黎の教訓を聞いて韓湘は笑った。「仁義は大道の廃れたところに出て、学問は大きな嘘がまかり通る時代に盛んになるのだよ、おじさん」そしてこう続けた。
「私は大自然の中に悠々自適に暮らし、善悪や正邪といった相対的な俗世とは違う場所にいるんです。絶対の境地を生きているのです。天の意思と密かに結んで壺の中に世界を隠し、仙人の造形の技を行って、橘の実の中に山や川を持っているのです。おじさんが古人の使い古した説に満足し、小事の中で間違った一生を空しく生きるのが、かえって哀れに見えます」昌黎は言った。「お前の言う事が私には信じられぬ。今すぐここで、その仙人を越えるほどの技というものを見せてみなさい」すると韓湘は黙ったまま、前に置いた瑠璃の盆をうつ伏せて、それを開けて見せた。するとそこには碧い宝石の牡丹があでやかに咲いていた。昌黎は驚き、それに近づいてよく見た。花の中には金の文字で句が書いてあった。「雲は秦嶺に横たわり、我が家は何処にあるか。雪は藍関に覆い積もり、馬は前に進まない」昌黎は不思議に思ってこの句を何度も読み返し、優美遠長で形式は整っているが、その意味はどうも分からないと思った。もっとよく見ようと手を伸ばすと花は忽然と消え失せた。これで韓湘は仙人の術を身につけたということが万人に知られることとなった。
その後、昌黎は「仏法より儒教が貴い」という旨の書状を皇帝に差し出し、その罪で潮州に流されることとなった。日暮れの道に馬泥み前途はほど遠かった。遥か故郷を振り向けば秦嶺に雪が降り積もり、来た道すら分からなかった。険しい山を登ろうとすれば、藍関に雪が満ち満ちて行くべき道も見えなかった。昌黎は進退窮まって辺りを見回した。
そこに勃然と韓湘が現れた。昌黎は馬を下り韓湘の袖を取った。そして、「先年、お前が碧い宝玉の中に見せた句は、今回の左遷を予見したものであったのだな。そして今お前がここに現れたことで私も悟ったよ。私はこのまま、流浪の地より帰る事も出来ないまま、悠死することになるのだな。これがお前と永遠の別れとなるかと思うと、この悲しみをどう耐え忍べばいいのだ?」と、涙ながらにそう告げて、そして先年の句に言葉を継ぎ八句一首と成した。
一封朝奏九重天
夕貶潮陽路八千
欲為聖明除弊事
豈将衰朽惜残年
雲横秦嶺家何在
雪擁藍関馬不前
知汝遠来須有意
好収吾骨瘴江辺
韓湘はこの句を受け取り袖に入れた。そして両人は泣く泣く東西に別れた。
玄恵法印は昌黎のこの事例を語り、「もし主君や目上の人が間違ったことを言ったなら、たとえ厳しい処罰を受けることになったとしても、正しい事を言わねばなりません」と結んだ。それを聞いて無礼講の一同は怒った。「我々は孫子の兵法などの、もっと実戦に役立つ講義が聞きたいのだ。法印の講義はまるで役に立たない。もう講義は辞めにしてもらおう」
無礼講の屋敷を一人出ての帰り道、法印はポツリと言った。「痴人の面前に夢を説かず」
馬鹿者はとんでもない誤解をするから、理想論などうっかり話してはいけないというのは、どうやら本当のことらしい。あんな者たちの前で講義をするなど、「私も愚かであったよ」と。