01-05 中宮御産御祈りの事 付けたり 俊基偽つて篭居の事

 元亨げんきょう二年の春より、中宮ちゅうぐう禧子よしこ懐妊かいにんを願う祈祷きとうが派手におこなわれるようになった。多くの寺院から貴僧きそう高僧こうそうが呼ばれて大法だいほう秘法ひほうが行われた。
 中でも法勝寺ほっしょうじ円観えんかん上人しょうにんと小野随心院ずいしんいん文観もんかん僧正そうじょうの二人は、特別の勅命ちょくめいを受けて宮殿の内にだんかまえて、中宮禧子のすぐそばで肝胆かんたんを砕いて御祈おいのりをした。仏眼ぶつげん金輪こんりん五檀ごだんの法・一宿いっしゅく五反ごへん孔雀経くじゃくきょう七仏薬師しちぶつやくし熾盛光しじょうこう烏蒭沙摩うすさま変成へんじょう男子なんしの法・五大ごだい虚空蔵こくうぞう六観音ろっかんのん六字ろくじ訶臨かりん訶利帝母かりていも八字はちじ文殊もんじゅ普賢ふげん延命えんみょう金剛童子こんごうどうじの法などが行われ護摩ごまの煙は宮中に満ちて振鈴しんれいは後宮に響き、どんな悪霊あくりょう怨霊おんりょうも禧子の妊娠にんしん邪魔じゃまに入る事などできそうもないほどであった。祈祷は連日連夜れんじつれんや繰り返され、そうして三年、僧たちは必死に祈ったけれど、ご懐妊の様子はなかった。のちにわかったことであるが、実はこの祈祷は関東かんとう調伏ちょうぶくすなわ鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとう目論もくろんで行われた秘法で、中宮禧子の懐妊は表向きの言い訳であった。
 これは重大事であるので、本来なら重臣たちの意見も聞いて行うべきことであったが、後醍醐天皇はこの秘密が関東に知られることを恐れて、知恵のある老臣ろうしんにも、口うるさい近侍きんじの者にも相談しなかった。日野ひの中納言資朝すけとも蔵人くらんど右小弁うしょうべん日野ひの俊基としもと四条しじょう中納言隆資たかすけいんの大納言師賢もろかたへい宰相さいしょう成輔なりすけなど、みかどの意見に必ず従う者たちのみを身近みぢかに置いてひそかに行われた。そして祈祷だけでなく、実際の戦闘せんとうそなえて味方みかたを求める事も考え、その役目を日野俊基がになうことになった。

 日野俊基は才知さいち学識がくしきひいでていたので、後醍醐天皇はかねてより彼に目を付けていた。身分が低いと反対する声を押し切り、俊基を弁官べんかん登用とうようし、蔵人くらんどをつとめさせた。弁官の業務は煩雑はんざつ多忙たぼうであったが俊基はよくつとめた。しかしその多忙な中、今度はさらに、「帝の味方を探すように」と、新たな密命みつめいが下った。「何とか時間を作らなければならない」と俊基は考えた。「尋常じんじょうな事では今の役目を降りることはできぬ。ここはひとつ何か大きな失敗をして、しばらく蟄居ちっきょの身となるのが良かろう。そして蟄居謹慎きんしんしているふりをして各地を回ってみることにしよう」と、そうこう思案しあんしていたところ、延暦寺えんりゃくじ横川よかわ衆徒しゅうと嘆願書たんがんしょを持って朝廷にやって来る事があった。俊基は、「しめた」と心で喝采かっさいし、早速さっそくそれを受け取って、皆の前で読んで見せたが、その時、楞厳院りょうごんいんをわざと間違まちがえて慢厳院まんごんいんと読んだ。座にいた人々は一同いちどう手を叩いて笑った。「優秀だと評判の男であるが、そんな読み間違いをするなんて、実は馬鹿なのではないか?」皆にからかわれて俊基はずかしそうに部屋を出た。そして、「恥辱ちじょくにあったのでしばらく出仕しゅっしはやめにします」と伝言でんごんして、それから半年、朝廷に出てこなかった。俊基は蟄居しているのであろうと皆は思った。しかしその実、彼は山伏やまぶしに身をやつし、大和やまと河内かわちに行き、古い城郭じょうかくを見て回ったり、様々な土地の風俗ふうぞく財力ざいりょくを調べてまわっていた。
 そして河内の錦織にしごり判官代はんがんだい三河みかわ足助あすけ次郎重成しげなりなどの武士、南都なんと北嶺ほくれいの僧兵たちなどを味方につけた。