01-04 儲王の御事
阿野廉子一辺倒に見せかけながら、後醍醐帝はしかしさらに多くの官女と関係を結び、おかげで十六人の優秀な皇子、儲王を授かる事ができた。
その第一の皇子は尊良親王といった。御子左の大納言二条為世の娘、従三位為子を母として産まれ、内大臣吉田定房に養育された。十五歳の頃に詩や和歌に才能を発揮するようになり、古今集の古い和歌をたしなんだ。風に吹かれては詩を口ずさみ、月を眺めては戯れる、彼はそんな風流人へと成長していった。
第二の皇子は尊澄法親王といった。母は同じく二条為子で、総角の幼少期に妙法院の門跡に入り仏法に励むようになった。修行の合間には兄と同じく歌道を学び、やがて伝教大師ほどの業を行い、慈鎮和尚以上の風雅な人と言われるほどになった。
第三の皇子は護良親王といった。母は村上源氏の末裔、源師親の娘親子で、幼少期より聡明であった。後醍醐天皇はこの皇子こそ自分の跡を継ぐ者だと考えたが、それでも春宮(親王)にすることはできなかった。天皇の位は大覚寺殿と持明院殿で交互に引き継ぐことが、後宇多天皇以降よりの習わしであったので、大覚寺統出身の後醍醐天皇の次の春宮は持明院統の側から立てるのが筋であった。これは二流に別れた皇族が互いに争うことを避けるため、幕府が案出した手段であったし、天皇家もその意を組んで代々踏襲してきた。後醍醐天皇は、一度はこの第三の皇子を春宮に推そうと考えたが、やはりそれは横紙破りであると諦めて出家させることにした。こうして護良親王は、梨本の門跡に入室し、承鎮親王の弟子となった。そして一を聞いて十
を知るほどの優れた才覚を見せたので、僧たちは驚いた。「一実円頓の花、匂ひを荊溪の風に薫し、三諦即是の月の光を、玉泉の流れに浸せり」護良親王の説く法華経は天台に広まり、その哲理は美しい泉に映る月光のように冴え渡る。今にも消えそうな仏教の燈火を再び高く掲げる者はこの親王の他はない。この親王が門跡となった時にこそ仏法が再びよみがえるのだ、と僧たちは手を合わせて悦び、頭を下げて感謝した。
第四の皇子は静尊法親王といった。母は護良親王と同じ親子で、彼も出家して聖護院二品親王の弟子となり、三井寺の仏法を学ぶようになった。
この他にも儲王となり得る有能な皇子が多く生まれ、いよいよ天皇家の運気は一気に上がり栄えの兆しが見え始めたようであった。