01-03 立后 付けたり 三位殿御局の事

 文保ぶんぽう二年八月三日、西園寺さいおんじ太政大臣だじょうだいじん実兼さねかねこうの娘、禧子よしこ皇妃こうひについて、弘徽殿こうきでんつまり皇后こうごう宮殿きゅうでんに入った。西園寺家からの立后りっこうは、後嵯峨ごさが天皇・後深草ごふかくさ天皇・亀山かめやま天皇・伏見ふしみ天皇に続いて、これで五代目であったので、人々は西園寺家の繁昌はんじょうに目を見張った。西園寺家は承久じょうきゅうの乱のおり、鎌倉幕府の味方みかたに付いた一門であったので、幕府はその後も西園寺家を大切たいせつにして、そのおかげもあったかもしれない。この立后には北条高時も喜んだし、後醍醐天皇もそれを見越みこしてこの結婚をおこなった、ともいわれた。というと、禧子は政略せいりゃくのために選ばれたように見えてしまうが、しかし、『増鏡ますかがみ』や『花園天皇宸記しんき』によると、二人はまだ後醍醐天皇がくらいく以前より恋仲であった事がわかる。というより、二人はかなり怪しい関係で、花園天皇の治世ちせいの頃、まだ春宮とうぐう親王しんのう)であった後醍醐帝が禧子を屋敷から連れ出して妊娠させた事が書かれている。春宮、「しのびてぬすみたまひて」云々うんぬん。この時、後醍醐天皇は二十六歳、禧子は十一歳、共に『源氏物語』の愛読者であったという。光源氏と紫の上、ハンバート・ハンバートとドロレス・ヘイズ。ちょっと怪しい関係を彷彿ほうふつさせるエピソード。そして、それから五年の月日が流れて、禧子は晴れてみかどの皇后となったというわけである。
 禧子はその年、二八にはち十六歳じゅうろくさい、花も恥じらうお年頃としごろ金鶏きんけいえがかれた衝立ついたてうちよりでて玉楼殿ぎょくろうでんへと入る姿は、春の夭桃ようとうが悩ましげに咲いて、枝垂しなだれたやなぎが風にそよぐような風情ふぜい毛嬙もうしょう西施せいしも顔を伏せて恥じ入り、絳樹こうじゅ青琴せいきんも鏡をおおうといった具合ぐあい。「もともと二人は恋仲であるし、これは後醍醐天皇もお喜

びであろう」と、口さがない京雀きょうすずめどもは二人をうらやんで噂をしたが、入内じゅだいしてのちはあん相違そういして、帝は皇后にあまり近づかなくなった。その日から、皇后は深宮しんきゅうの中に向かって、春の日の暮れがたき事をなげき、秋の夜のながきをうらみ、独りさみしく打ちしずんで暮らすようになった。後醍醐天皇のいない後宮こうきゅうでは、燈火ともしびの残り火だけが煌々こうこうと妙に明るいけれど、香りの消えた香炉こうろも、蕭々しょうしょうと窓を打つ夜の雨も、その何もかもが涙を誘うものに思えた。白楽天はくらくてんは、「人うまれて婦人の身となることなかれ、百年の苦楽は他人による」と詩に詠んだけれど、「実際その通りかもしれないわ」と皇后になって禧子は思った。
 その禧子の身の回りをする女官にょかんの中に、阿野あの中将公廉きんかどの子で、三位殿さんみどのつぼねという娘がいた。眉目びもく秀麗しゅうれい才気さいき煥発かんぱつみかどはその娘を一目見るなり恋に落ち、そして早速さっそくに手を出した。後醍醐天皇は三位局さんみのつぼね阿野あの廉子れんし寵愛ちょうあいし、やがてこの世に帝と廉子の二人しか居ないがごとく振る舞うようになった。皇后は悲しくそれを眺め、「帝があのとりこになったのは、綺麗からだけではないようだけれど、だけどあのに一体どんな魅力があるのかしら?」と考えた。そしてこう判断した。「あの機知きちんだ話術わじゅつ突飛とっぴな行動、それが帝を喜ばせているようだわ」帝はますます廉子に入れ込むようになり、やがて片時かたときも離さないようになった。春の花見のうたげでも、秋の月見のうたげでも、牛車ぎっしゃに乗る時も、行楽こうらくに行くときも、後醍醐天皇の側にはいつも阿野廉子の姿が見えるようになった。帝は廉子にすっかりおぼれきって政務を行わなくなった。さらに廉子を准后じゅごうにすると宣言したので、人々は阿野廉子を

皇后と同等に思うようになった。阿野家の一門はにわかに栄え、人々は驚いた。「男など産んでも無駄だ。産むなら女を産むべきだ」と誰もがささやくようになった。裁判さいばん評定ひょうじょうも阿野廉子の口添くちぞえが左右するようになり、廉子の口添えさえあれば、なまけ者でも褒章ほうしょうがもらえ、役人の判決はんけつくつがえすことができた。「関雎かんしょは楽しんでいんせず、悲しんでやぶらず」と孔子は言う。ミサゴという鳥は楽しんでもさず、かなしんでもかなしみすぎることがない、ということであるが。さあ、それにくらべて後醍醐天皇の見苦みぐるしさはどうであろう。傾城けいじょう傾国けいこく美人びじんのために国はきっと乱れるであろう。人々の心に不安のきりが立ちこめていった。