01-02 関所停止の事

 またみかどは、四境しきょう七道しちどうすなわち京都から出る四つの道と、東海とうかい東山とうざん北陸ほくりく山陰さんいん山陽さんよう西海さいかいの七つの街道に置かれた関所せきしょを廃止させることにした。「関所は本来、非常事態に備えるためのもの。ところが昨今さっこん、この関所を利用して商品の流通を遮断しゃだんして不当に利益を上げる商人がいる。また年貢ねんぐ運搬うんぱんにも面倒めんどうである」後醍醐天皇はそう言って、新しくできた関所を廃止させた。ただし、大津おおつ葛葉くずはは守りのかなめであるので残すことにした。
 またみかどは、元亨げんこう元年の夏、大飢饉だいききんに苦しむ民に食べ物を与えた。大日照おおひでりが田を枯らし、野に餓死者がししゃが満ち溢れるのを知った後醍醐天皇は、「ちんに不徳があるのなら、天は朕一人を苦しめればよいであろう。庶民をひどい目にあわせることはなかろう」となげいた。そして朝餉あさがれい供御ぐごすなわち朝食を食べることをやめ、それを飢えた人々に与えるように手配した。しかしこれだけでは到底とうてい食物は足りない。帝は次に検非違使けびいし別当べっとうに命じて、富裕ふゆうの商人たちが利益のためにたくわえた米殻べいこくを点検させた。そして余剰よじょうと見なした米を二条町の仮屋で安く売るようにさせた。このおかげで人々にようやく食物が行きわたり、誰もが九年ほど暮らせる蓄えができた。また帝は訴訟そしょうが起これば自ら記録所きろくしょに出向き、直接に訴えを聞くようにした。後醍醐天皇の裁判のお陰で土地争いはなくなって、刑罰のむちの音も聞かなくなった。
 ああ、なんと素晴らしい政治力。理世りせい安民あんみんまつりごとを行う聖君の如き後醍醐天皇。しかししむらくは、せい桓公かんこうのように武力を愛し、共王きょうおうに似て度量どりょうが狭かったことであろう。これが結局あだとなり、帝の天下は三年を待たずに終わる事となる。