01-01 後醍醐天皇御治世の事 付けたり 武家繁昌の事

神武天皇じんむてんのうから数えて九十五代目、後醍醐帝ごだいごてい治世ちせいの頃。武臣ぶしん相模守さがみのかみ北条高時ほうじょうたかときという者がいた。なかなか無礼ぶれい失礼しつれいな奴で、悪い噂もたんとあるが、つまりはそいつが天皇をないがしろにしたことが、四海しかい(日本国内)をおおいに乱す事となった」と、まあ、これは天皇側からの一方的な言い分であるが、あたらずといえども遠からず、ということにしておこう。いくさ烽火のろしがあちこちに上がり、つわものたちのときの声がどよめく、実際にそんな戦乱の事態がそののち四十年余りも続くのであるから、当時天下の政務を一手に握っていた鎌倉かまくら幕府ばくふの、その筆頭ひっとうである執権しっけん北条高時は、国を乱した責任を問われても仕方ないのである。「如幻にょげんせいうちに、何事なにごとをかなさん」と妄心もうしんられ、太平たいへいの世を打ち砕いたみかどにはもっと責任がありそうであるが、それについて今は問わないことにする。とまれ、狼煙ろうえんは天をかすめ鯨波げいはは地を動かし、とそんな戦乱になってしまっては、哀れなのは庶民である。家は戦火に燃やされて、自身もまさにそこいらに生えた雑草ざっそうのように首をねられて、寿命をまっとうすることすらがはるかな夢のようになった。国中どこにも、もう身の置き場もなくなった、と誰もがなげいた。
 なぜこのような事態になってしまったのか、つらつら考え合わせてみるに、そのわざわいもとは遠く後白河院ごしらかわいんの頃、元暦げんりゃくの時代に行き着くようである、その頃、鎌倉の右大将うだいしょう源頼朝みなもとのよりともというおかた平家追討へいけついとうの手柄を立てた。後白河院はそれに大層たいそう感謝かんしゃして、彼をして六十六ヶ国ろくじゅうろっかこく総追捕使そうついぶしにんじられた。これで鎌倉幕府が出来て、諸国に守護しゅご地頭じとうが置かれる事となった。この頼朝の亡く

なった後は、彼が任じられた職・征夷大将軍せいいいたいしょうぐんを長男の左衛門督さえもんのかみ頼家よりいえが継いだ。次いで次男の右大臣うだいじん実朝さねともが継いだ。いわゆる三代将軍さんだいしょうぐんとはこのお三方さんかたを指す。こうして鎌倉に幕府を開いた源氏げんじの流れは、しかし、こののち二代将軍頼家よりいえを、その弟である実朝さねともが討ち、三代将軍実朝さねとも頼家よりいえの子の悪禅師あくぜんじ公暁くぎょうが討ち果たすという、なんとも悲惨ひさんがな出来事で途絶とだえる。親子三代・四十二年であったというから、なんと短い治世ちせいではないか。とまれ、そうした後に幕府の中で頭角とうかくを現したのが頼朝のしゅうと遠江守とおとうみのかみ北条時政ほうじょうときまさ子息しそく前陸奥守さきのむつのかみ北条義時ほうじょうよしときであった。まるでじゅくした果物くだものが自然に木から落ちるように、義時よしときは幕府の政務せいむの中心、執権という役職にいて、国中に号令ごうれいをかけるほどの強い力を得たという。それを遠く都で眺めて、太上天皇だじょうてんのう後鳥羽院ごとばいんは驚いた。義時をここで滅ぼしておかねば、朝廷の力が弱まってしまう。義時を是非ぜひとも討ち取らねばならぬ。思い悩んだ後鳥羽院、やがて鎌倉にくしの武家を集めて、さあ始まったが承久じょうきゅうの乱。幕府と朝廷、双方そうほうともに景気よく軍旗ぐんきを立ててあいまみえ、宇治うじ勢多せたの河原でチャンチャンバラバラ、泥んこになって戦って。結果は皆さんご存知ぞんじの通り、一日もしないうちに朝廷軍は敗走し、あわれ上皇は隠岐おきの島。勝った義時は意気盛いきさかん。時流じりゅうに乗って四海を制し、国の政治を一手に握った。そしてその後は、武蔵守むさしのかみ泰時やすとき修理亮しゅりのすけ時氏ときうじ武蔵守むさしのかみ経時つねとき左馬権頭さまのごんのかみ時宗ときむね相模守さがみのかみ貞時さだときと執権北条七代は、徳を持って政治を行い窮民きゅうみんを助けて喜ばれた。国の中心となって多くの民を慰撫いぶした執権は、しかし官位かんい四位しいを越える事なく、また公卿くぎょうにもならなかった。「けん仁恩じんおんほどこし、己を

責めて礼義れいぎを正す」人に対しては謙虚けんきょに施し、自分に対しては常に厳しく礼と義を重んじる。こんな家風を継いだお陰で、執権北条家の七代は権力の中心にいながらも安泰あんたいであったし、また自らの持つ力に、おごたかぶる事もなかった。また、承久より後の将軍には、親王しんのうあるいは摂関家せっかんけの者を迎える仕組みを作り、貴族出身の将軍を武臣たちがあがめることで、京と鎌倉の調和を保つような工夫もした。さらに義時は、再び戦さが起こらぬように六波羅ろくはら探題たんだいを設置して、北と南の両探題には北条一門のしかるべき者を送るようにした。六波羅探題は京の警備と三河みかわより西にし沙汰さたが任されたので、北条一門の力はこれでさらに強くなった。これはまた、これよりずっとのちの話であるが、蒙古もうこが大軍勢で攻めてきた事件を教訓きょうくんに、九州に鎮西ちんぜい探題たんだいも設置され、ここにも幕府の重臣が送られるようになった。かくして天下のすべての民は執権北条家の下知げちしたがい、その権力は国内はもちろん、はるか四海より外の異国いこくにまで及ぶようになった。朝陽ちょうようおかさざれども残星ざんせいひかりうばはるる(夜が明ければ、太陽が意識するしないに関わらず、星の弱い光はかき消されてしまう)。武家は決して公家をないがしろにしなかったが、武家が力を増せば自然に、朝廷ちょうてい威光いこうに暗い影が差していった。地方では地頭じとうが強くて領家りょうけが弱く、国では守護しゅごが強くて国司こくしが弱い。武家と公家の、同じような権威を持つ者たちがそれぞれの場所でぶつかって、多くの場合、武家が勝って公家が負けるという図式が出来た。朝廷は年をるごとに衰えて、武家はますます勢いづいた。

「武家が跋扈ばっこすることも、まあ仕方ないことか」と歴代れきだいの天皇はあきらめ半分で眺めてきた。いつか承久のうらみを晴らそうと思わないわけでもなかったが、まだ時節じせつも良くなさそうだし、公家はどうしても微力びりょくである。そんな風に考えては、ぼんやりと武家の繁昌はんじょうを遠くから眺めた。そこに北条時政から数えて八代目の後胤こういん前相模守さきのさぬきのかみ北条高時入道崇鑒そうかんの治世となり、四海が俄かにわかにざわつきだした。「北条高時という男、行動は軽率けいそつ、人にあざけられること多く、どうも執権のうつわでないらしい」そんな噂が流れだし、政治が正しく行われなくなった。人々は貧乏びんぼうするようになり窮民きゅうみんちまたあふれだしたが高時は気にもせず遊興ゆうきょうを好み、これまで立派に政道せいどういつくしんだ先祖たちの名をはずかしめた。珍奇ちんきなものをもてあそんで、幕府の権勢けんせい失墜しっついさせるような真似をした。えい懿公いこうは鶴を牛車に乗せて、臣下の者より鶴をでたために、兵たちに見捨てられて滅んでいった。しん胡亥こがい趙高ちょうこうだまされ、馬と鹿の区別がつかなくなったため、馬鹿になって滅んでいった。高時の噂を聞くにつけ、人々は滅んだ皇帝たちの故事を思い出し、嘆息たんそくしては眉をひそめた。
 後醍醐帝が天皇となったのは、ちょうどこの北条高時の時代であった。後宇多院ごうだいんの第二皇子で母は談天門院だってんもんいん、執権高時のはからいで天皇となった三十一歳の後醍醐帝は、「この執権なら打ち破ることができるかも知れない」とひそかににらんだ。そしてそのためには立派な天皇を演出しなければならない、と考えた。くして後醍醐帝は、私的立場では三網さんこう五常ごじょう、つまり儒教じゅきょうでいう君臣・親子・夫婦の三つの道と、仁義礼智信の五つの徳を守る努力

を始めた。そして孔子こうしが最も尊敬したというしゅう文王ぶんおうの道を進もうと考えた。公的こうてき立場たちばではあらゆる政務をなまけずに行おうと考えた。そして延喜えんき天暦てんりゃく、すなわち醍醐だいご天皇や村上むらかみ天皇が政務を執った時代を夢見て、自ら後醍醐天皇と名乗った。『後醍醐天皇』、それは天皇が最も輝いていた時代の、その後継者であることを皆に印象付ける名であった。こういった様々さまざまな努力の、その甲斐かいあって万民ばんみん徐々じょじょに後醍醐天皇を尊敬するようになった。鎌倉の駄目な執権に代わって天皇が政治の実権を握るべきだという声がひそかにささやかれるようになった。何もしない執権に対して政務に熱心なの後醍醐天皇。さらにみかどはこの構図をことさら演出して見せようと、諸道しょどうすたれたところを再建し、小さな善行にも褒美ほうびを与えた。また禅宗ぜんしゅう律宗りっしゅうの寺社も再興させて、天台てんだい真言しんごん儒学じゅがく等々のすぐれた学者を見出した。そういった噂が巷で流れるにつけて、「帝は、誠に生まれながらの聖君である」「すべてのものが仰ぎたくなる明君である」と評判はいよいよ高まり、やがて多くの人々が後醍醐天皇の政治を待ち望むようになった。