02成りあがり 03-01

 東京証券取引所のすぐそばにある喫茶店の席に座ると、その紳士、山神一は席に着くなり、「ねえ、君たち。証券会社の仕事ほど面白いものはないよ」と言った。「ボクもそう思います」と、行平君はミルクセーキを飲みながら頷き、「だから今日は友達を連れて来たんです」と、隣に座る菊次郎の方をちらりと見た。菊次郎は目の前に出された珈琲には手を付けないまま、少し強張った表情で山神に尋ねた。「証券会社の仕事というのは、そんなに面白いものなのですか?」山神は大きく頷き破顔した。「そりゃ面白いよ。優秀な企業を見極めてそれを応援する瞬間、私は血沸き肉躍る心地となるんだ。私の見込んだ企業がいよいよ大きくなって、国をどんどん豊かにしていくことを想像してごらん。こんなに楽しい話はないよ。おまけに応援のために買った株価もどんどん上がっていくんだぜ?」と、一気にまくし立てた。「現在日本の金融は銀行を中心に運営されていて、政府もそれを推奨している。銀行は資産を持つ人からお金を借りて、それに対して決まった利息を支払いながら運営していくというシステムだ。現在の利息は定期で八パーセント、短期で六パーセントほどであるから、例えば年に百万円預けている人は年に八万円、短期でも六万円ほどを金利としてもらう計算かな。何もしないでお金が増えていくのだから、まあ悪くないと思う人も多いであろう。しかし、証券の世界ならば、もっと違った意味でお金を生かせるんだ。株を買うということは、これから伸びる企業を資金面で応援するということなんだよ」菊次郎がポカンとした顔つきで山神の顔を見ていると、「まあ、口で言うだけじゃ理解しにくいであろうから、珈琲を飲んだら市場館に戻ろう」と山神は豪快に笑った。

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 三人が喫茶店を出て証券取引所に戻ると、館内は相変わらず熱気が渦巻いていた。「中央にある十二のテーブルは一般銘柄ポスト。それぞれ業種ごとにわかれていて、テーブルの内側にいる才取会員が外を取り巻く証券会社の社員たちから注文を聞きながら取引を成立させていく、って寸法さ」と、行平君が菊次郎に耳打ちをした。会場の周りには雛壇状に二百台以上もの電話が並び、スーツの男たちが電話を肩ではさみながら手を上げて、しきりにサインを送っている。「あれは証券会社の社員。お客さんからの注文を受けると、ああして指の形で業種や銘柄、価格と株数、売りか買いか、そんなことを一般銘柄ポストにいる社員に伝達しているんだよ」と今度は山神が教えてくれた。電話で受けた注文は証券会社社員たちの手旗信号で伝達され、才取会員によって板に記入される。と、そんな話をしているところでカンカンと鐘が数回、打ち鳴らされた。「ああ、前場が修了したんだな」と山神は腕時計を見たあとに、「あの鐘は戦前から市場の開閉を知らせた鐘さ」と菊次郎の方を振り向いた。そして前場の終値が書き出された長い黒板へと歩いて行った。そしてしばらくボードを眺めながら歩いていたが、製造業の板の前で不意に足を止めた。そして、「ああ。やられたな」とつぶやき、ボードの中のひとつの会社の株価をじっと睨んだ。菊次郎と行平君がその山神に追いついて、後ろからそっとあたりを見ると、製造業の株価の下にぐったりと崩れるようにして、川一証券の社員たちがいた。山神はすぐに彼らのもとに駆け寄り、「どうしたんだ?」とかがんで尋ねた。社員は山神に気付くと慌てて身を起こし、「山種に仕掛けられました」と答えた。

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 前場、四百二十円から始まった狙いの株が十分も経たないうちに値崩れを始め、昼前にとうとう三百五十円にまで落ちてしまった。買い支えていたのは川一と宇和島のブーちゃん、空売りを浴びせかけてきたのは売りの山種こと山崎種二を中心とする江口・野村・大和の連合軍であった。山神は社員たちからその報告を聞くと、「ううん」と一つ大きく頷き、「ともかく、お前たちは腹ごしらえをしてくるんだ。腹が減っては戦さが出来ん。後場はオレがやる」と社員たちの肩をポンポンと叩いて励ました。それから宇和島のブーちゃんのもとに行き、「とにかくお前も買い続けろ。絶対に損はさせない」と鋭い目で言った。社員たちが食事から帰ってくると、「オレの言葉に間違いはない。全部買いだ。成行でとことん買い続けろ」と指示を出し、スーツを脱ぎ捨てネクタイを緩めて陣頭に出た。そして後場が始まった途端、「買え買え、買い続けろ」と人目に付くように吠え出した。これには他の証券会社の社員たちが驚いた。「川一証券は副社長自ら出張って、株価を吊り上げてるぞ」他社の社員たちは場電に飛びつき報告し、それぞれ上司からの支持を仰いだ。「山神がいるなら買いだ、買いだ」と、電話の向こうで上司たちは怒鳴った。株価はどんどんと上昇し、瞬く間に始値の四百二十円を突き抜け、ストップ高の五百円がその日の終値となった。山種についた証券会社の社員たちが青い顔をして立ちすくんだ。それを見て山神は、「明日も買い続けるぜ」とニヤリと笑った。そして二日後、この株は売買停止に陥り、結局、解け合いとなった。ブーちゃんは千五百万円の儲けを出し、川一証券は四千万円の利益を上げた。菊次郎と行平君は驚愕の眼差しでその仕手戦を眺め続けた。

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 数日後、築地の料亭金田中で山神一は頭を掻いた。「君たちに本当の証券取引を見せるつもりが、とんだ仕手戦を見せることになってしまって面目ない」菊次郎と行平君は山神の前に並んで座り、オールドパーを口に含んで彼の言葉に耳を澄ました。「世の中じゃ、今やオレは大相場師みたいに言われているが、オレはそんなもんじゃない。オレはあの企業を純粋に応援したかっただけなんだよ」「わかるかい? 前にも言った通り、証券会社は企業を応援するもんなんだ。企業はそれぞれ得意の分野で業績を上げるのが仕事、それぞれがそれぞれに業績をあげて国を豊かにしていくのが仕事。オレたち株屋はそんな頑張る企業のために株を出来るだけ高く売って資金を調達してやるのが仕事。お客さんである企業の株価を上げることが仕事。企業が元気であってこそ、国は豊かになるんだからね」「それがあの空売り専門の奴らめ。不景気に株価が下がるのは当たり前だと豪語して、散々に売りを浴びせやがって。不況の時こそ株を買い支え、企業を応援することが証券会社の務めなのに。それでこそ国が豊かになるはずなのに。空売りで株価を崩すような真似をして。本当に罰当たりな奴らだよ」「それで、まあ今回はガラにもなく投機筋みたいな真似をしてしまったが、しかし本来、オレは本来そういう相場師じゃないんだよ」「オレはかつて自信をなくしていたとき、二十五銭でみた浅草の安来節に元気づけられ、人生が変わった。オレもあの芸人のように皆を喜ばそうって思ったんだ」少し照れながらウィスキーを飲む山神を菊次郎は格好いい男だと思った。この人と一緒に働きたい。そう思って横を見ると行平君も瞳を輝かせて、同じくこの副社長を見ていた。