02成りあがり 02-01

 昭和十年九月。赤坂見附の屋敷に越してしばらく経ったある秋の日、フロックコートの老紳士は菊次郎を近所の尋常小学校に連れて行った。そして荒削りの石の校門の脇で、「お前は不破家の跡取りだ。岩ノ坂のことはすべて忘れて、不破家にふさわしい教養を身につけなければいけない」と厳かな口調で告げた。その日から、菊次郎はこの祖父の期待に応えるべく、勉学に勤しむようになった。毎朝五時に起床して観音経を五度唱えたあと、論語の素読と算盤のおさらいをする。と、障子の向こうからお手伝いのキヨが、「坊ちゃま。朝食の時間ですよ」と声をかける。一階に降りて顔を洗い、西洋風の食堂に入ると、大きな木目のテーブルの、六脚並んだ椅子のひとつに祖父と向かい合って座る。朝食は白いご飯とみそ汁とお漬物、それに焼き魚や海苔など。朝食が終わると従僕に伴われて登校。一日机で勉学に励み、友達とはしゃぎながら家に帰ると、再び机に向かって復習。そうするうちにキヨが、「坊ちゃん、晩御飯ですよ」と障子の向こうから声をかける。それが毎日続く。冬は瓦斯ストーブが部屋を暖め、夏はキヨが団扇であおいでくれる。赤坂見附での暮らし。それは岩ノ坂では想像すら出来なかった暮らし。もう寒い日も暑い日も道端に座って哀れな声を出さなくていい。菊次郎はその暮らしにどんどんと馴れていった。そして、この極楽のような生活のためにも更に勉学に励まなければならないと、教科書を丸暗記していった。その成果もあって、やがて彼は学校で最も優秀な成績をおさめる生徒となり、そして戦中から戦後にかけての雑然とした世相もどこ吹く風と、府中一中から第一高等学校、そして東京帝国大学へと、絵に描いたようなエリートコースを堅実に歩んだ。

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 菊次郎が帝国大学に入学したその年、祖父が流行り病に倒れた。菊次郎が慌てて駆け付けると、祖父はうっすらと目を開けて言った。「お前の母は私の娘。素直で可愛く優しい性質の子であった。ところが十八になった時、不意に子供をはらんだ。それがお前であった。私は腹を立て、誰の子だと強く問うた。娘は相手の男を屋敷に呼んで、結婚を認めて欲しいと言った。相手の男は旅芸人で、顔立ちは綺麗に整っていたが心根はあまり良くは見えなかった。私は男を試すつもりで、娘が席を外した際に、いくらで手を引く? と聞いた。男は右手をパッと開いた。私は頷き、十円札を五枚、男に手渡してやった。男はニヤリと笑って、そのまま娘に会おうともせず旅の空に消えて行った。娘は泣いたが、奴はそんな男だった。その男が去ったあと、娘は気丈にも、一人でお前を生み育てると言った。当時堕胎は犯罪であったこともある。私も同意した。たとえ父なし子であっても娘を助けてやろうと、私も腹を決めた。ところが、お前が生まれて数週間したある日、不意に赤ん坊がいなくなった。娘に問いただしても何も言わず布団の中で泣くばかりであった。後に知ったところによると、娘はお前を育てることに疲れて、どこで知ったのかヨイトマケ屋のハツという女にお前を預けたということであった。そして、お前がいなくなった数週間後、娘は蝋燭の火が消えるように、儚く死んでいった。するとその後を追うように、妻も死んでいった。私は屋敷に一人きりとなり、そして、どうしても跡取りのお前を見つけようと誓った。不破家の家名存続のためにも。そして板橋に行った時、偶然にお前を見つけた。お前は幸いにも、娘に瓜二つであったよ。神のご加護だと思ったよ」

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 そんな話をした三日後、祖父は帰らぬ人となった。菊次郎は悲しみに打ちひしがれていたが、その半月後、学費の未払い通知が来たことでハッと現実に戻った。不破家に引き取られて以降、まるでお金の心配などせず呑気に暮らしてきた菊次郎であったが、ここでようやく、この世に生きるにはお金が必要である、という鉄則を思い出したのである。そしてその鉄則を教えてくれたキク婆さんとの暮らしを思い出したのである。祖父の庇護はなくなって、このままいけば路上の暮らしに逆戻り。これはなんとかしなければいけないと菊次郎は青くなった。振込用紙を片手に右往左往、とりあえず家宝の壺を質に入れて、その場はなんとかしのいだが、しかしこれは循環する稼ぎではない。どうすれば定期的にお金が回ってくるのだろう。そうこう考えていたある日、友人の行平君が、「兜町に行かないか?」と誘ってきた。兜町とは明治十一年に東京株式取引所が設立されて以来、日本金融業の中心地であった場所である。戦後しばらくは取引を停止させられていたが、この五月から東京証券取引所として新たなスタートを切った、と新聞紙面に書いてあったのを菊次郎は思い出した。「兜町に行って何をするんだい?」と菊次郎は尋ねた。「面白い人に合わせるよ」と行平君は笑った。そして菊次郎を連れて鎧橋を渡り大きな円柱形のそのビルの裏手の市場館に入っていった。市場館の中は人でごった返していた。混雑するフロアからフロアへとメッセンジャーボーイは歩き回り、ブローカーの書いたメモが雑踏の中に飛び交っていた。「大変なものだな?」と菊次郎が感嘆の声を漏らすと、「証券取引が禁じられていた時代も闇で売買していた奴らさ。なかなか一筋縄ではいかないぜ?」と笑った。

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 菊次郎が興味津々、あたりを見回していると行平君がその腕を引いて耳元で言った。「あそこに蝶ネクタイの男がいるだろ? あれは横井英樹って奴さ」「横井英樹?」と菊次郎が聞き返すと行平君はコクンと頷いて、「戦中は軍需品を売って大儲けして、戦後はそのお金で土地を買いあさり、それでまた大儲けして、貧しい丁稚奉公の小僧から押しも押されぬ大富豪に成りあがった男さ。その大金で梨本宮家の別荘を買って、宮家の紋章を付けたまま車を乗り回しているって噂さ。ほら、宮家は戦後、皇籍離脱と財産税で苦しい立場になったからね。そこに目をつけての買いあさり。目から鼻に抜けるような聡い男さ」と言った。続いて行平君は少し離れたところを指さして、「あれは宇和島のブーちゃんて相場師」と言い、それからその近くに立っている人たちの名を順繰りに、「あれは不文の秘法ストラドルの使い手、栗山浩、あっちに見えるのは昭和の天一坊、伊東ハンニ、その向こうにいるのが横堀将軍石井定七で、ほら、あそこには龍野の貝ボタン屋、是銀もいるよ」と教えた。菊次郎は紹介されたその面々を遠目に見ながら、「で、君の言う面白い人ってあの中の誰かかい?」と尋ねた。行平君は首を横に振った。「彼らは皆すごい人だけれど、今回ボクが君に紹介したいのは彼らじゃない。その人は君と同じ東京帝大出身の人さ」「帝大出身?」菊次郎が聞き返すと、「そうさ。証券業の天才、太田収に見いだされ、四十前であの大手証券会社、川一証券の取締役に任命された風雲児。今はまだ副社長だけれど、もうすぐ社長に任命されるって噂の人物」と行平君はまるで自分のことのように誇らしげな顔で言った。そこに一人の紳士が近づいてきて、「やあ」と軽く手を上げた。