02成りあがり 01-01

 昭和五年(一九三〇)一月。日本橋から板橋の方面へと、旧中山道の暗い夜道を一人の女が歩いていた。頬かむりの和服の上に半纏を羽織っていたが、その半纏の背中がたいそうに盛り上がっているのは、和服と半纏の間に赤ん坊が一人背負われているからである。石神井川を越えると遠くに大きなお化けのような縁尽榎が見えた。女は寒さを凌ぐためにかなり足早に歩いていたが、時々その足を少し緩めた。そして懐に手を入れてそこに二十枚、お札があるのを数えてはニンマリと笑った。和気清麻呂の描かれた十円札が二十枚で二百円。背中の赤ん坊の良縁を願って、その母親が手渡した大金。「さてしかし、このまま赤ん坊は半纏の中で窒息死、ということもあるわいね。生きて宿場までたどり着けたら儲けもの。さあ、その先はその先さ」女はボソリとそう言って、おんぶ紐を少し揺する。赤ん坊はかすかに動き、女の和服を少し握る。「ほほう、まだ生きておいでじゃのう。なかなか生命力がある」女はフフフと笑ってから、再び暗い夜道を急ぐ。ヨイトマケ人夫の福田ハツ。彼女が板橋岩ノ坂にできた女集落で一番偉い人物とされているのは、時折こうして赤ん坊を預り、大金をせしめてくるからであった。出生を知られたくない名家の子女から不義の赤ん坊をもらい受け、その養育費やら紹介料を持って帰るからであった。「さて、この赤ん坊。もし幸いに生きて集落についたなら、二十円を養育費につけてトンネル長屋のキク婆さんにでも預けようかね」そんな算段をつぶやきながらどんどんと坂を下ていくと、やがて古い宿場町の仄かな灯りが見えて来た。太郎吉長屋にお化けの清さん長屋。北海道長屋に原田旅館。道を挟んでその左手がキク婆さんの住むトンネル長屋であった。

01-02

「婆さん、いるかい?」とハツは壊れた戸を叩く。「おりますぞ」とキク婆さん、「例によって鍵もないから、勝手に入って来ればよろし」と不愛想な返事を返す。「そうそっけなくするもんでもないぞ」とハツは戸を開けて中に入り、背負っていた赤ん坊を無造作にキク婆さんに手渡す。「ほう?」とキク婆さんは顔を上げハツの顔を覗き込み、「いくらだ?」と問いかける。「二十円」とハツは答え、懐から十円札を二枚、キク婆さんに手渡す。そしてどこに背負っていたのか一升瓶を一本置いて、「婆さんと赤ん坊の、カタメの盃をしなくちゃなんめえな?」とニヤリと笑う。それをどう聞きつけたのか、「なんだ?」「酒か?」と長屋中の女どもが集まり、やがて集落中の女までどやどやと押しかけ、「おハツさん、もう一本出してけろ」「つまみはないんかの?」などと騒ぎながら狭い部屋に入ろうとする。「いかん、いかん。ここじゃ手狭じゃ。一階の大広間に集合じゃ」誰かがそう言って、キク婆さんを担ぎ出し、ハツはどこから取り出したものか一升瓶を二本に増やしてその後に続く。そして赤ん坊を部屋に残したまま、キク婆さんと赤ん坊の親子の絆を始めるための大宴会が開かれる。「いやあ、名前は何とする?」「菊次郎とでもするかのう」「今度は生かすか、殺すのか?」「今度は生かしてオナサケ屋の連れにしようと思うんじゃ」「生かすとなれば、赤ん坊も相当稼がにゃならんのう?」「あれはなかなか器量が良さそうじゃ。あれが哀れな声を出せば世間の人も可哀想に思い、金を恵んでくれるじゃろう」ワハハと皆が大笑いをして、これで赤ん坊、菊次郎は生かされることに決まった。「赤ん坊が生きるも死ぬもワシらの気分次第じゃのう」誰かがそう言って笑った。

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 菊次郎が初めてこの世界を認識したのは砂ぼこりの舞う駅前の路上であった。隣にはたいてい一人の老婆が座っていて、駅から出てくる裕福そうな紳士淑女に何やら声をかけていた。その口上はどこか哀愁を帯びていたので、それを聞いた紳士淑女は、時には目に涙を浮かべながら、隣に座る菊次郎の手に何かを握らせてくれた。その紳士淑女が立ち去ると、老婆は急いで菊次郎の手を開かせてその握らされたものを奪うように取った。それが一日、日の昇る時間から日の暮れる時間まで行われた。そうしてだんだんに日が暮れると今度は商店街のほうへ行き飲食店を回った。そして賑わっている店があると、その店先に立って、「お恵みを」とつぶやいた。店の主人や小女は、ひどく嫌そうな顔をしながらも、握り飯や漬物を少しお椀に入れてくれた。「世間のお情けをもらって生きるからオナサケ屋じゃ」と老婆は握り飯を頬張りながら菊次郎に教えた。菊次郎が物心ついたある日、「菊次郎は達者か?」と体格のいいおばさんが部屋を覗きに来た。そのおばさんが帰ったあと、「あれはヨイトマケ人夫のおハツさん」と老婆は菊次郎に教えた。「ヨイトマケ人夫ってなんだ?」と菊次郎は尋ねた。「さあ、ワシもよくは知らねえが土木工事で地固めをする仕事だ」と老婆は教えてくれた。「オナサケ屋より裕福そうだな」と菊次郎が言うと、「フフフ」と老婆は隙っ歯の口をニヤつかせ、「お前のような子がおるお陰じゃのう?」と笑った。そして、「オナサケや屋でもっと金を稼ぎたくば、もっと頭を下げるのだ。頭を下げれば下げるほど、お金はもらえるぞ」と教え、「さらにもっと稼ぎたければ、口の効けないフリをしろ。目の見えないフリをしろ。耳の聞こえないフリをしろ」と続けた。

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 菊次郎がオナサケ屋の仕事を生業とするようになって六年目、すなわち五歳になったある日、いつものように駅前で、「お恵みを」とフロックコートの紳士に声をかけると、その紳士は振り返り、目を丸くした。紳士はすぐに連れの従僕を呼びよせ、何かを手早く伝えた。従僕は菊次郎の前にしゃがんで聞いた。「お前の両親はどこにいる?」菊次郎はキク婆さんをチラリと見て、「ボクには両親がいないんだ。どこかではぐれちまって、生まれた時から独りぼっち。おばあさんがずっと育ててくれているんだ」とできるだけ哀れっぽく答えた。従僕は後ろを振り返り、フロックコートの紳士を見た。紳士は大きく頷いた。従僕は今度はキク婆さんの方を見て言った。「この子の両親はどこにいる?」キク婆さんは少し不安げに従僕とフロックコートの紳士を代わる代わる見たあと、「ワシも知らん」と答えた。従僕はさらに尋ねた。「お前はこの子の血縁か?」キク婆さんは首を左右に振り、「縁もゆかりもない赤ん坊を、うっかり拾ってしまったよ」と答えた。菊次郎は驚愕し、「おばあちゃん?」と叫んだ。キク婆さんはプイッとそっぽを向き、「これはあんたの血縁じゃな? 目元がよく似ておる」と紳士に言った。紳士は従者を押しのけて、菊次郎の前に腰をかがめた。「おじいさんは誰?」と菊次郎が尋ねた。その目元に自分と同じ泣きボクロを確認すると紳士は立ち上がってキク婆さんに言った。「私はこの子を引き取りたい」キク婆さんはジロリと紳士の顔を見上げ、「二百円でどうだ?」と言った。紳士は黙って札入れから二百円の兌換紙幣を取り出してキク婆さんに渡した。キク婆さんはその二百円札を不審そうな顔で太陽に透かし、「清麻呂にしておくれ」と言った。