01君は誰? 02-01

 放課後、霧之介はまた梵天丸に声をかけた。「ねえ、部活は何か入るのかい?」「入らない」梵天丸は背中を向けたまま、まったく興味のない素振りで答えた。霧之介はノート類を片付けながら、「そっか」と短く返事をし、「ボクは演劇部に入ろうと思うんだけれど」と、そこで少し言葉を切ってから、「一緒にどう?」と尋ねた。「演劇部?」と、これには少し興味を覚えたのか、梵天丸が振り向いた。梵天丸のサングラス越しに、二人の目と目がピタッと合った。梵天丸はハッと驚いたような顔をして、あわててそっぽを向いてから、「行かない」と何故か不貞腐れたように短く答えた。おや、何だか興味ありそうじゃないか? 霧之介は少し驚いたけれど、すぐ梵天丸の横顔を見て微笑んだ。彼は気取っているけれど、実は演劇が好きなのかも知れないぞ。何回か誘えば、そのうち来るかもしれないね。そう、彼は野良猫君だ。なついてもらうにはそれ相応の時間もかかるさ。そんなことを思いながら、「じゃあ、また気が向いたらね」と言って席から離れた。そして鞄を背負ってドアに向かった。と、そこに道を塞ぐようにして、いかにも素行の悪そうなスカジャンの先輩が二人、教室に入ってきた。そして、「このクラスに金髪がいるのか?」と、その先輩の一人(スカジャンの背中に派手な吉祥天が刺繍されていたので吉祥天と呼ぼう)が教室内を見回して怒鳴った。霧之介は驚いて梵天丸の方を振り向いた。梵天丸は知らん顔で窓の外を眺めていた。「いた、お前だな」と二人連れのもう一人(スカジャンの背中の絵柄が夜桜なので夜桜銀二と呼ぼう)がヅカヅカと梵天丸に近づいて、射程距離に入るや否や、「生意気なガキめ」と右手を伸ばしダックティルをつかもうとした。

02-02

 途端、ピシッと鋭い音がした。夜桜銀二は、「うっ」と唸ってあわてて手を引っこめた。そして痛む手の甲を見ると、赤いミミズバレができていた。梵天丸は銀二に背を向けたまま、「降りかかる火の粉は払わなくちゃね」とピタピタと、プラスチックの定規で教科書を叩いた。それからおもむろに振り返り、サングラスを少しずらして夜桜銀二を睨んだ。「な、なんだ、その目は」と銀二はムキになり、再びダックティルに手を伸ばした。またもやピシッと音がして、銀二は「うわあ」と悲鳴を上げた。梵天丸は目にもとまらぬ早業で、定規で銀二の手をはたき、「手癖の悪い先輩だね、まったく」と言った。「おいおい、洒落にならねえな?」と今度は吉祥天が近づいてきた。梵天丸は無表情のまま、吉祥天を見た。「立てよ」と吉祥天が顎をしゃくった。「校舎裏に来い」と夜桜銀二がドスの効いた声で言った。梵天丸は定規を手で弄びながら、黙って二人を見上げた。「この野郎」と夜桜銀二が拳を振り上げた。そして今度は髪をつかむのではなく、梵天丸の顔を目掛けて拳骨を振り下ろそうとした。と、いきなりその手をガシッと、誰かがつかんだ。そして万力のような力で銀二の手首を締め上げた。その余りの怪力に夜桜銀二は青ざめた。このクラスには金髪野郎の他にもまだ危険な奴がいるのか? そう思って振り向くと、熊のような大男が立っていた。真っ黒いスーツをビシッと着込んだ髭面の熊。「ひょっとして、マフィア? ですか?」夜桜銀二は恐る恐る、つぶやくように尋ねた。髭面の熊は何も答えず銀二を睨み、片手でぐいと銀二を持ち上げた。右手一本で吊り下げられた銀二は、「あわわ」と変な悲鳴を上げて浮いた足をばたつかせた。

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 吊り下げられた夜桜銀二を、霧之介はポカンと眺めていた。と、その横にメガネ君がすり寄って来て、「あの熊、誰だか知っている?」と聞いた。もちろん知るわけがない。「知らないよ」と霧之介が答えると、メガネ君はさも得意げに、「ボンクラファンドの踊る相場師。あの人物こそ、梵天丸の右腕で不破財閥を実質上仕切る男、岩間蔵三さ」と言った。「へえ? 君、何でも知っているね?」霧之介は思わず感嘆の声を上げた。メガネ君はメガネをクイッと持ち上げて、不敵な笑顔を霧之介に見せて言った。「当然だろ? だって同じ学校にあの不破財閥の継承者が来たんだから、調べられる限りはなんだって調べたさ」と、向こうでどしんと大きな音がした。見ると夜桜銀二が尻もちをついていた。どうやら熊のような大男、岩間蔵三が手を離したようであった。それを見て、メガネ君はゴクリと生唾を飲んだ。そして、「ひっくり返った夜桜銀二を見下ろす大きな髭面の熊。さて岩間蔵三はこの不良たちをどう成敗するであろうか? これは目が離せないぞ」と妙な解説をした。霧之介もクラスの皆も遠巻きに、その成り行きを見守った。夜桜銀二はそんな皆の見守る中、へっぴり腰で後ずさりをし、吉祥天の後ろに隠れた。銀二をかばう格好となった吉祥天は、「や、やめろよ。来るなよ」と、近くの机の上にある鉛筆やノートを手あたり次第、蔵三に投げつけた。蔵三はそれを手で弾きながらジリジリと二人に近づいた。「やばい。逃げよう」と吉祥天は銀二に言ったかと思うと、そのまま後ろを向いて一目散に逃げだした。「ま、待ってくれよ」と夜桜銀二もこけつまろびつ、吉祥天の後に続いて教室から飛び出した。そしてもう後を振り向きもせず廊下の彼方へと消えて行った。

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「クラさん、もういいよ」と梵天丸は定規を鞄に仕舞いながら言った。蔵三はしばらく廊下の方を睨んでいたが、すぐに梵天丸のほうを向き、「では総帥、帰りましょう」と恭しく一礼をした。梵天丸は、「うん」と言って立ち上がり、熊のような大男を従えるような格好で、レザージャケットのポケットに手を突っ込んで、クラスの誰に何を言うこともなく悠々と廊下に出て行った。霧之介がポカンと眺めていると、再びメガネ君が横にきて言った。「岩間蔵三は、まるで髭面の熊だけどさ。ああ見えてかなりの切れ者なんだ。何せ前の総帥、不破鉄山は実の息子より蔵三を信頼していたってほどなんだから」霧之介はメガネ君の方を見て聞いた。「実の息子って、梵天丸のお父さん?」メガネ君は頷いて言った。「そうなんだ。鉄山は息子の庄太郎より蔵三を信頼していたんだ。鉄山は、梵天丸が五歳の時、会社をひとつプレゼントしたんだけれど、その会社の運営はすべて蔵三に任せる、と皆に宣言したんだよ。だから会社名もほら、梵天丸のボンに蔵三のクラで、ボンクラファンド、なんだ」霧之介はメガネ君を改めてまじまじと見た。「ボンクラファンドって、そういう謂われがあったんだ? へえ? 君って、いろんなこと知っているんだね?」メガネ君は得意そうにメガネを押し上げて、「そりゃそうさ。何も知らない君の方こそおかしいよ」と笑った。そして、「次はこっちだ」と今度は霧之介を廊下に連れ出し、窓から外を指さした。その指の先を霧之介が見てみると、来客用の駐車場に胴長の赤いリムジンが一台停まっていて、運転手が後部座席のドアを開けるところだった。校舎から出てきた梵天丸と蔵三はさも当然な様子でそのリムジンの後部座席へと姿を消していった。