02_河原院の怪異 01-01
世阿弥の能『融』に塩釜の浦人として登場する源融は気品のある風流人である。寂れてしまった自分の屋敷、河原御殿に亡霊として舞い降りて、「われ塩竈の浦に心を寄せ、あのマガキが島の松蔭に、明月に舟を浮かめ、月宮殿の白衣の袖も、三五夜中の新月の色」と謡う様は、なるほど風流人としての面目躍如たる華やかさがある。百人一首では屋敷の名称を冠して河原左大臣として登場する。「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに」。また源氏物語の主人公、光源氏のモデルであったのではないかとも言われている。源融、生まれは嵯峨天皇の第十二皇子で、もとは皇族であったが、臣籍降下の結果、源姓を賜り嵯峨源氏の祖となった。嵯峨源氏と言えば、その子孫に頼光四天王のひとり渡辺綱をはじめとする渡辺氏などが存在するがそこまで話を広げると収拾がつかなくなるので今回は止めておく。その他、有名な逸話としては、陽成天皇が物の怪に取りつかれて病床に臥せった時、その皇太子に立候補しようとして却下された話や、そもそも左大臣にまで上り詰める際、敵対する貴族たちの上に次々と厄災が降りかかり、お陰で立ちはだかる者もなく、無人の荒野を進むがごとく昇進をした話なども知られている。これなどは何となくチェーザレ・ボルジアを彷彿させるエピソードで、応天門の変などもいろいろ調べれば面白いような気もするが、しかしともあれ、源融はそういった辣腕の政治家というより、やはり色恋を愛する風流な貴人としての面に焦点を当てた方がその人物にあっているような気がする。