01_バロネット卿 01-10
「ネイサン・ロスチャイルドは持てる金を投げうってコンソル公債を買いあさったよ。その結果どうだ。ネイサンの読みは多いに当たり、コンソル公債は莫大な儲けを生み出したんだ」甚八は声を低くして語り、コタロウは思わず生唾を飲みこんだ。「ネイサンのすごいところは、さらにここからの判断だ。わずか数か月で大きな儲けが出たにもかかわらず、ネイサンはコンソル公債を売らないばかりか、逆に押し目買いを繰り返し、そしてとうとうロスチャイルドを世界最大の銀行にのし上がらせてしまったんだよ」甚八は目を爛々と輝かせて言った。「ワシもこのネイサンを見習い、戦争をうまく乗り切って日本最大級の銀行を作ってやろうと思うのだ」
横浜の波止場でコタロウと甚八は別れた。甚八は名古屋に帰り、コタロウは政府役人に伴われて東京に出た。
港区芝の増上寺付近に瀟洒な屋敷を与えられ、コタロウはそこからほぼ毎日、政府高官のもとに赴くという暮らしが始まった。外務省と陸海軍省からの呼び出しが最も頻繁であったが、内務省や文部省からも、しばしば声をかけられた。コタロウはそのたびシルクハットを冠り人力車に乗って、帝国ホテル、紅葉館、椿山荘などに出向きイギリスの教育や習慣などについて問われるままに答えた。ただ日本語がなかなか上手く話せず、通訳なしでは意味の分からないことも多々あった。はじめはコタロウも悩んだが、次第に開き直るようになり、やがて日本名を捨て自らバロネット卿と名乗るようになった。幼少期をイギリスで暮らした彼の立ち居振る舞いは、やや不器用ながらもその名に奇妙な説得力を持たせた。