01_バロネット卿 01-04

 その夜めずらしく、父は酒を飲まなかった。長持の奥をゴソゴソしていたが、ややあって古びた巻物と一本の脇差を取り出してきた。父はコタロウの前にそれを置いて言った。

「これはお前が准男爵家の跡継ぎであることを示す家系図と代々受け継がれてきた家宝である。これを今宵、お前に譲る。准男爵家の誇りのすべてをお前に譲る。お前はこの誇りを胸に、明日、あのチャールズの船に乗り、広い世界に出るのだ。心配ない。何事にも臆さずどんどんと突き進め。そして未来を切り開くのだ。父は遠くよりお前の幸運を祈っておる。准男爵の誇りを持って旅立て。いざ、さらばじゃ」

 翌日コタロウはチャールズに伴われ、姫路から神戸、神戸からイギリスへと船に乗せられたが、船内では水夫としたひどくこき使われた。何のことはない。コタロウは奴隷として父に売られたのだった。ほぼ二ヶ月の間、コタロウは船酔いと重労働に苦しみ、ようやくロンドンに着いたときはもう立てないほどであった。チャールズはコタロウを船から引きずり降ろし赤十字の病院に放り込んだ。「退院したら、当然この病院代も払ってもらうからな」と怒鳴るチャールズは、もうコタロウが初めて出会ったときに感じた滑稽な熊さんではなかった。病院から抜け出し姿をくらまさねば使い殺されると思った。早ければ早いほうが良いであろうと、その夜、まだ体力も回復せぬままコタロウはベッドを抜け出し、霧に煙るロンドンの街に姿をくらました。一九一二年、コタロウ十一歳。日本で明治が終わるその年のことであった。